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 キジローは3時間ほどで起き出して、またサクヤの心配をし始めた。
 最初サクヤは『心配するな』と繰り返していたが、やがてキジローは無くした家族の代りにこんな風に誰かのケアをしたかったのだと気づいた。
 キジローはサクヤを必要としていたのだ。サクヤがキジローを必要としていたように。この人の手を取って良かった。

「姫さん、寒くないか?」キジローが毛布を持ってきた。
「大丈夫よ。これ以上くるまれたら、チョコレートみたいに融けちゃうわ」
サクヤが笑った。
「まだ顔が白い」キジローが手を取った。
「手も冷たい」両手で包んで温めようとする。
 サクヤは温室の陽射しの中で微笑んだ。
「大丈夫。何度も説明したでしょう?あんなこと、しょっちゅうなのよ。ちょっと疲れただけ」
 キジローがうなだれた。「すまん」

 あの日、普段はおくびにも出さない女の顔でまっすぐにこっちを見つめ返してきた。そのくせ、自分からは絶対に触ってこないし、上に乗せればどうすればいいのか途方にくれるらしい。聖母のように包み込んでくると思えば、赤ん坊のように安心しきって腕の中で眠る。そのギャップがかわいくて幻惑されて、つい深追いしすぎた。

「だからキジローのせいじゃないの。それにすごく幸せだったからいいの。このまま死んじゃってもいい、と思うくらい」
「そんなこと言わないでくれ!」キジローが遮った。
「キジロー?」
「冗談でも言うな、そんなこと!」
 キジローはベンチから立ち上がって、サクヤに背を向けた。
「ユリエさんのことなの?」
 答えずに肩を震わせている。
「キジロー、寒いわ。側に来て」
 黙ってベンチに戻るとサクヤを抱き上げてひざに乗せ、毛布ごと自分の身体で包んだ。
「同じことをユリエが言ったんだ」
 キジローはサクヤの頭に鼻をすりつけてつぶやいた。
「キリコを生んだ時に。難産で、かなり母体が危なかったと医者に言われた。”でも赤ちゃんが元気で、信じられないぐらい幸せだから死んでもいい”と言ったんだ。その次の日、死んだ」
 サクヤは黙ったまま、キジローの身体の温かさを感じていた。
「あんなことは2度とゴメンだ、と思っていたはずなのに。またバカなことをやらかしてしまった」
「・・・あなた、外に出さなかった。一度も」
「ああ。バカだ。あんたが昏睡した時、どれだけ後悔したかしれない」
「そのことが関係あるとは思わないけど・・・でも、なぜなの」
「なぜ・・・なぜだろう。頭に血がのぼってたわけじゃない。ちゃんとわかっててやったんだ。天女の羽衣を隠したんだ」
「天女の羽衣?」
「あんたは自分の命に執着してないように見えた。すぐにも消えて、空に溶けそうだった。腹に赤ン坊がいるかもしれない、と思ったら簡単に死ねないだろう?」
「ずいぶん原始的な解決法ね」
「そうだな。でも結局、俺は単にあんたに俺の赤ン坊を生んで欲しかっただけかもしれない」
 サクヤはうつむいて、水盤から木々に反射する光のきらめきを見ていた。

「キジロー。どうして私のことを”姫さん”と呼ぶの?」
「ああ、あんたの名前、姫神の名前だろう。木花咲耶姫。サクラの女神さまだ」
「どうしてそんなこと知ってるの。知っている人に初めて会ったわ」
「バアちゃんがそういう神話の話が好きでな。まあ、神社の神主だから仕方ないが」
「そうだったの」
「美人のサクヤ姫とブスのイワナガ姫の2人を差し出されて、ホノニニギはサクヤ姫だけ娶ってイワナガ姫を返した。返さなかったら長寿繁栄が約束されたのに、という話だ。バアちゃんは、それで俺に”女を外見で選ぶな”という訓戒を垂れたかったんだろうが、生意気なガキだった俺は”長生きなんかできなくてもいい。好きな女と充実した時間を過ごせれば、それが例え一晩限りでもいい”と言ったんだ。バアさんは珍しく白い顔をして、強張った声で言った。『お前。それは言上げだよ。お前は今、自分で自分の運命をしばったんだよ』俺はよく考える。ユリエがたった21で死んだのは、俺があの時、コノハナノサクヤヒメを選んだせいだろうかって」


 サクヤはゆらり、と立ち上がるとマキの樹の植え込みの間に入っていった。
「おい。どうした、姫さん!」
 キジローは追って低木の茂みに分け入ったが、大きな身体が災いして追いつけない。
「待てよ。どうした。姫さん、待ってくれ」枝が顔を打つ。
 やっとで追いついて腕を掴んだが、サクヤは顔をそむけてキジローを見ようとしない。
「どうした。俺、またマズイことしたか?」
「何でもない」
「だって泣いてるじゃないか」
「何でもない」
「姫さん、こっちを見ろよ」
 キジローはサクヤの腕をひっぱって抱き寄せると、覆いかぶさるようにサクヤの身体をすっぽり包んだ。
「一人で泣くな。話してみろ。何か思い出したか?予兆か?それとも俺がまたドジったか?」
 サクヤは濡れた瞳もわななく口も、キジローの胸に隠した。
「あなたのせいじゃない。ただ、サクヤ姫って死神みたいだと思ったのよ。男を早死にさせる、呪いの女神だわ」
「そりゃ違うよ、姫さん。徒に長生きするのが幸せとは限らん。それに早死にが不幸とも限らん。あんたは時々言ってたな。エクルーはあんたにつき合って宇宙を彷徨ったために、まっとうな暮らしができなかったって。でも、俺に言わせればうらやましいぜ。あんたと2人でずっと旅して来たなんて」
「そう?」
「俺は少なくとも、ボウズを可哀想とは思わないね。第一、あいつ自身が俺に自慢するんだぜ?グチに見せかけたノロケをな」
「そう?」
「それに俺は、この頃よく考える。ホノニニギがもう少し賢かったら、長寿と繁栄、両方手に入れられたはずだ。サクヤ姫とイワナガ姫ってのは、一人の女の違う面なんじゃないかと思う。サクヤ姫の表面の美しさとか優しさだけで満足せずに、彼女が内面に抱えた葛藤とか不条理な部分も理解して受け容れてやれたら、一緒に長く人生を送れたんじゃないかって」

 キジローの目がまっすぐにサクヤをのぞき込んだ。
「別にあんたを独り占めできなくていい。ボウズと2人であんたを支えていけたらそれでいい。とにかくひとりで泣くな。あんたはすまして笑ってるとこより、泣きベソかいたり、ぐるぐる悩んでるとこの方がかわいいんだから、迷惑だなんて思うな」
 両腕を背中に回して、ぎゅうっと抱きしめると低い声で言った。
「3000年だろうと3日だろうと構うもんか。あんたをこうして抱ける立場になれるなら」
「ありがとう・・・でも・・・」
「言うな」とキジローが静かに遮った。
「あんたに押し付けたくない。あんたから何か答えをもらおうと思ってない。ただ、俺の気持ちを言っときたかっただけだ。何もかも片付くまで、このまま3人でやっていこう」
 低い静かな声で、なだめるようにあやすようにゆっくり言った。
「俺が大した戦力じゃないのはわかってる。キリコに会わせるためだけに、俺を入れてくれたのもわかってる。だが、まだ俺を切り捨てないでくれ。見届けたいんだ」
「見届ける・・・何を?」
「この星と、あんたと、ボウズを」