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 キジローの腕の中で、サクヤがくるっと岩山の方に顔を向けた。
「ゲートが開いた。ノヅチが呼んでる」
「ああ、本当だ。山が青い」
「見えるの?昼間なのに」
「だって山全体が青いじゃないか」
 サクヤがじっとキジローを見上げた。
「不思議な人。あなたはもしかしたら、思ったより私に近い人間なのかもしれない」
「どういう意味だ?」
「ううん。忘れて」
 ゲオルグの方を振り返って伝言を残した。
「呼ばれたので、隣に行ってくるわ。2、3日で戻ると思う。エクルーに伝えてくれる?」
「わかりました。ミズ・サクヤ。お気をつけて」
 サクヤは温室からまっすぐ、岩山に続くガレ場を登り始めた。キジローが慌てて後を追った。
「姫さん!せめてブーツとズボンに着替えろ。第一、数日向こうで過ごすのに、何の装備も持たずに行くつもりか?」
「こちらより豊かな星よ。スオミのうちに行くんだもの。何の用意も要らないわ」
 イドリアンの砂漠仕様のサンダルで、身軽に足場の悪い急斜面を上がって行く。ついてゆくキジローの方が息が上がった。
 祠に入ると、泉が明るく青く輝いていた。水面の向こうでノヅチとヤマワロが待っている。
「水の移動のことでちょっと詰めたかったんだが・・・おや、キジロー、君もいたのか。一緒にくるか?」
「いや、俺はそっち方面はたいして役に立たないから遠慮するよ。また船を飛ばして情報拾ってくる」
 サクヤが泉の縁に立って振り返ると、キジローが心配そうな顔で見守っていた。サクヤは思わず笑ってキジローの方に戻ると、ほおに両手をあててキスをした。
「あなた、何だか捨てられた仔犬みたいな顔してる」
「実際、そんな気分だ。あんたもボウズもいないドームにひとりなんて初めてだ。2人とも・・・帰ってくるよな?」
「本当、不思議な人。大丈夫。ちゃんと帰ってくるわ。あなたも気をつけて。今日はうちでゆっくり休んでね。空ではちゃんと シールド閉めて。いつフレアが飛ぶかわからないんだから。約束して?」
 キジローは黙って、ぎゅっとサクヤを抱きしめた。
「行って来ます」
 サクヤはするりと泉に消えた。

 湖面に出たところでノヅチが言った。
「どうやら、人間関係が多少変化したようだな」
 サクヤはくっくっくと笑った。
「あなた方でもそんなことに興味があるの」
「いや、野暮なことはしたくないが、邪魔もしたくないのでね。大枠を把握しておきたいだけだ」
「大枠・・・」サクヤがぼんやりとつぶやいた。
「いや、大体わかった。別に説明を付け加えなくていい」
「ノヅチにはわかったの。私は自分でもよくわからないのに」
「考えすぎるな。あんたの悪いクセだ」とカリコボが言った。
「まあ、キジローみたいに直感だけで動くのもどうかと思うが。エクルーは反射神経で動いているし」
「3人でちょうどいいぐらいだが、ややサクヤの荷が重いかもしれんな」とノヅチがつけ加えた。
「あんたにも鋭い直感があるはずなのに、考えすぎて捉え損なっているのかもしれんぞ」とカリコボが言う。
「ここにいる間は、ちょっと理詰めで考えるのを休め。のんびりいい空気を吸って、何がしたかったか思い出してみろ」
 サクヤがけげんな顔をした。
「水の移動について打ち合わせじゃないの?」
「それはこの間決めた通りでいい。何も変更はない。あんたが倒れたというから呼んだんだ。何だか混乱しているようだし。ちょっとあいつらと距離を置いて、リラックスしろ」
「あいつら?」
「悪ガキ2人だ」
 サクヤはくっくっくと笑い始めて、最後には涙ぐんで両手で口を覆った。
「どうして私の周りの男性陣は、こんなに私に対して過保護なの?」
「そりゃあ、あんたが危なっかしいからだ。自覚がないから、なお始末が悪い」ヤトがぬっと顔を出してつけ加えた。
「ミナトが呼んでいるぞ」
「どこにいるの?」
「案内する。俺に手をかけろ」

 森の中の青い瞳のように輝く丸い湖に出た。
「ここは・・・どの辺りなの?」
「北半球だ。あんたが出てきた滝つぼから120°ぐらい上になる。こっちは今、夏だ」
「北半球にもサンプル採りに何度も来たけど・・・ここは初めてだわ」
「ミナトの隠れ家だ。スオミも知らない」
 ミナトが静かに湖面を泳いで2人の方に来た。
「やあ、サクヤ。よく来たね」
 ヤトはそっとサクヤを湖岸に下ろして言った。
「俺は南に帰る。俺たちが2人ともいないとスオミが騒ぐ」決してスオミが騒いだり、わがままを言ったりしないことを知っているくせに、ヤトはよくこういう言い方をする。本当はスオミにもっと年相応にのびのび振舞って欲しいのだ。ヤトがすっと水面で消えた後、サクヤはやや身構えてミナトに聞いた。
「話って何?スオミには内緒の話なの?」
「そう。あの子はこの3日間、朝から晩まで薬草採りに走り回っている。君が目覚めるのがあと一日遅かったら、あの子の方が倒れたんじゃないかと心配したほどだ。後で、口当たりの悪いものを色々出されるだろうが、ガマンして飲んでやってくれ。効き目は保証する」

 サクヤは黙ってミナトを見上げていた。こんな話のためにわざわざ星の裏側に呼び出すわけない。
「スオミにもキジローにも・・・エクルーにも内緒の話なのね?」
「そうだ」
「それで何なの?」
「・・・首が疲れるだろう。私の頭に乗って」
 ミナトが湖岸に首を伸ばした。サクヤがよじ登ってミナトの額の2本の触角の間に座ると、静かに湖面を泳ぎ始めた。
「もう君のことだから・・・夢の端々から気づいていると思うが・・・時間が迫っていてね。多分、今日、明日にもクリアな予兆が訪れるだろう。その時、君は一人の方がいいと思って、ここに呼んだ。もう隠しておけない。心の準備をして欲しい」

 梢を映す青い湖面。飛び交うトンボとイワツバメ。
 こんなに穏やかで美しい風景の中で、なぜこんな宣告を受けなければならないのだろう。気づかないようにしていた。気づきたくなかった。私が鮮明な予兆を受ければ、あの子も一緒にその夢を見るからだ。知らせたくなかった・・・エクルーに。

 ミナトはサクヤのパニックは治まるまで、静かに水面を泳ぎ続けた。疲れ切って声も出なくなる頃、サクヤはようやく涙でひりひりする目で、ミナトを見下ろした。
「こういう時は、つくづく我々のサイズの違いがうらめしいよ」
「サイズの違い?」
「私の前肢で、君の肩を抱いてやることもできない」
 サクヤはようやく少し笑った。
「ありがとう。心配してくれて」
「大丈夫か?スオミは君の夢までは読まないと思うが、動揺してボルテージが上がれば、接触しなくても君の思考が伝わってしまう」
「スオミにはいつ知らせるの?」
「知らせる必要ないだろう。本人も知らない運命を、12歳の少女に預けるのは酷だ」
「そうね。酷だわ」
 3000年生きた我々にだって酷なのに。

 ミナトはサクヤを乗せたまま、首を伸ばして顔を湖岸の木の梢に近づけた。
「薄紫色の実があるだろう。つる性の」
「ええ」
「丸く熟したのを5つばかりもいで口に入れてくれないか」
「皮はむく?」
「いや。ヘタさえ取ってくれればいい。1コずつ口に入れてくれ」
 サクヤが口に入れると、「うん。甘い」と満足そうに飲み下した。
「最後のひとつは君のだ。ノドが乾いただろう」
 ミナトのさりげないやさしさに、また眼の奥が熱くなった。
「ありがとう。すごく甘いのね。おいしい」
「さあ、スオミが心配する前に帰ろう」

 ミナトが常宿の滝が落ちる湖に戻ったとき、サクヤはミナトの頭の上でぐっすり眠っていた。カリコボがのぞき込んで「どうしたんだ?」と聞いた。
「アヴァロンの実を食べさせた。私も4つお相伴したから・・・」
「おい!」
「久しぶりに朝までぐっすり・・・」
 言い終わらないうちに、ミナトは額の上にサクヤを乗せたまま、長い首を自分の胴体に巻きつけて寝息を立て始めた。
「まあ、眠るのが一番の薬だな」
 ヤマワロがため息をついた。