しっぽの危機


 北上するヨットの中でグレンがこそっと聞いた。
「イリス、さっきのあれ、本気で言ったんじゃないよね?」
「当たり前だろ」とイリスはにやっと笑った。「もう帰ってこない娘のことで気に病むよりも、友人関係で悩む方が健康的だ。ちょっと自覚を促してやったんだ。」ふふん、と鼻を鳴らす。「何にせよ、あのオッサンがサクヤに夢中になるのはいいことだ。気持ちが前向きになるだろう。サクヤとエクルーの膠着状態にも、少しは進展があるんじゃないか?」

 イリスが自分の星の言葉でしゃべっているので、ジンは4割もわからなかった。
「だが、あの黒い男はいかんな。まだ危ないぞ」
「危ないって何が?」グレンが聞いた。
「傷が深すぎる。これから何度も開く傷だ。あの男を救うのに、サクヤもエクルーも自分の身体を投げ出さなくちゃならん」
「身体を・・・ってどういうこと?」
「サクヤは奪われ、エクルーは死ぬ」
「死ぬって何?それ、何かの例えかい?」
「まだわからん。これから明るい手が出れば、避けられるかも。でも今は暗い手ばかりが見える」
 イリスが静かな声で淡々と言うので、グレンはぞっとした。魔女ってこんな感じだろうか?ばあちゃんと話していても、こんなに怖いと思ったことはない。

 実はグレンは、同じような畏怖をサクヤに対しても感じていた。エクルーは怖くないが、サクヤは怖い。何か、自分と全然違う世界を見ている気がする。時々、サクヤの背後に宇宙が透けて見えている気がするのだ。
「ジンもキジローも度胸あるよな」と、グレンはため息をついた。
「何か言ったか?」と運転席のジンが振り返った。
「別に。あ、母さんが俺を送ってくれるついでに朝メシ喰ってけって言ってたよ」
「そりゃ、ありがたい。グレンちのメシはうまいもんな」
「フェンに会える。カヤの赤ちゃんに会える」とイリスも片言の連邦標準語ではしゃいでいる。

「スオミを早く呼んでやりたいな」とグレンがぽつっと言った。
「どうしてだ?スオミは楽しそうだぞ?」
「だって、フェンより小さいのに、あんな所で1人で暮らしてるんだぞ?」
「1人じゃない。それに、あっちから見たらここだって”あんな所”だ。いいじゃないか。当分、お互いに遊びに行ったり来たりしてれば。スオミだってギリギリまで育ての親たちと過ごしたいと思うぞ?」
 グレンはイリスの顔をまじまじと見た。
「イリスっていくつなの?すごく考え方が大人だよね」
「さあ。こっちの暦でいくつになるか。でも、もう子供が作れる年だぞ?」
 グレンは一瞬固まった。ひげが全部おっ立った。
「イリス、それ、ジンに言った?」
「まだ、言ってないが、なぜだ?」
「言っちゃだめだよ、絶対!」
「なぜだ?」
「そんなこと言ったら、誘ってるのと同じじゃないか!」
「誘うって何を・・・ああ、交尾か」
 グレンのしっぽの毛が逆立った。
「まだ言わん。ムトーはあまり女の扱いに慣れていないらしい。もう少し時間がいるだろう」

「そろそろ着くぞ」ジンが声をかけた。
「お腹スイた」イリスが標準語で言った。
「全くだ。色々あったもんな。でも良かったじゃないか、イリス。女の子の友達が増えて。スオミにスセリにククリ。フェンも入れて、5人で井戸端会議ができるぞ。泉の周りで」
「ウン。フェンに会わせるってククリに約束した。メドゥーラにスオミのこと話すの、楽しみ」
 グレンはちょっと目眩がした。スセリやククリを「女の子」と呼んで、フェンと一緒に扱える大らかさ、というより鈍感ぶり。第一、絶対、イリスのたどたどしい言葉にだまされてる。

「よけいな事、言うなよ」
 イリスが低い声で耳打ちしたので、グレンのしっぽの毛がまた総立ちになった。
「ムトーはな、俺がかわいそうな子供だから、俺を女だと意識せずに一緒に暮らせてるんだ。ヤツはまだ、”大人の女”は持て余すだろう。もう少し待つさ」
 グレンは背中の毛まで全部おっ立ってしまった。やっぱりイリスは怖い。

 ヨットが夏の放牧地に着いた。
「おーい、置いてくぞ」
 テントの前でジンが呼ぶ。中からフェンが出てきて、イリスに駆け寄った。フェンも実はイリスのように考えているんだろうか?

 グレンはため息をついた。・・・女性不信になりそうだ。