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翌日、またパンパス・ターミナルで待ち合わせた。
約束した東ウィングに入ったところで、エクルーはソファに身体を伸ばし、本を頭に伏せた。そして(キジロー、こっちだ)と呼んでみた。
2,3分して、キジローが顔から本を取り上げた。
「お前、何でこんなとこに寝てんだ。時計塔の下だって言ったろう?あっちの端の!丸っきり反対側じゃねえか!」
「丸っきり反対側で、しかも顔をかくしていたのに、よく俺を見つけられたね」
「あ?そういや、そうだな。まあ、いい。ヴァッサー・ガルテン行きシャトル、あと7分しかないぞ」
これは、もしかしたら本物かも。思わぬ拾い物をしたかもしれない。
キジローは取り上げた本を返しながら、「お前、意外に暗いの読むヤツだなあ」と言った。
「読んだの?」
「あ?ああ。ジュニア・ハイの時だったかな」
「その頃は、今みたいに話題になってなかっただろ?」
「そうそう、今頃、また映画作るなんてなあ。きれいな新装本まで出ちまって。俺なんかデータバンクから取り寄せて、プリントして読んだのに」
いろんな表情を見せるキジローは3日前と別人のように見える。エクルーは野生動物をなつかせたような征服感を味わった。しかも、困ったことにこのオッサンがかわいく見えて来た。今日はエクルーの注文でヒゲを剃って来たので、ますます若くみえる。
療養所は丘の上の修道院の一部を修築したものだった。尼僧姿のシスターたちが患者の世話をしている。
「まあ、エクルー。お久しぶりね。そういえば、今朝は早くからアルが、あなたが来るって言ってたわ」
「すみません、シスター・シーリア。なかなか来られなくて。サクヤも来たがっているんですが」
シスターは、エクルーの腕をぽんとやさしく叩いた。
「責めたわけじゃないのよ。ただ、アルはあなた方が来ると本当に大喜びするって言いたかっただけ。サクヤには・・・ムリをしないで、と伝えてちょうだい。こちらは?」
「友人です。アルのことを話したら、見舞ってくれるって」
「まあ、ありがとう。彼はお客様が大好きなのよ」
初老とは思えない血色の良い丸い頬でにっこり笑った。
「さあ、ご案内するわ。今日は中庭にいるの。生き物探検の日なのよ」
中庭では、7,8人の患者が思い思いにくつろいでいた。草の上に大の字になるもの。噴水の水に手を浸すもの。とんぼが宙を横切ると歓声が上がった。ただ、その喜び方がちょっと変わっていた。右肩だけ激しく降り続ける男。おっおっおっと声を上げながら、頭をゆらす女性。調子っぱずれな奇声をあげる老人。
キジローは衝撃を受けた。
生垣に頭を突っ込んで、四つんばいになっていた少年が頭を上げた。
「あっ、やっぱりエクルーだ!オレ、昨日から言ってたんだ。エクルーが来るって」
少年は左半身に激しいチックが現れていた。
「アル、ちゃんと薬、飲んでるか?」
「うん、いつもはね。でも飲むと、いつエクルーが来るかわからなくなっちゃう。この人、誰?」
「友達だ。キジローっていうんだ。キジロー、彼がアルだ」
アルはしばらくじっとキジローを見つめていた。肌が異様なほど白い。そして眼球が青かった。光って見えるほどだ。わずかに黄色味のある白っぽい髪。
腕をがくがく震わせながらキジローの顔の前まで手を上げると、人差し指を突きつけて
「キリコ!」と叫んだ。キジローがぎくっとした。
「キリコ、キリコって誰?探しているの?」
キジローは声が震えそうになるのを、努めて抑えた。
「そうだ。ずっと探しているんだ。アル、知らないか?」
「うーん。オレの時にはいなかったな。この頃、入ったんだろ?あ、見せるものがあった。ちょっと待ってて」
そう言って、少年は建物に走っていってしまった。
「記憶がないって?」
「ところどころは回線がつながっているんだけどね。もともと直観力が強いし」