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俺は誰かといたはずだ。誰かが俺の名前を呼んだはずだ。どんな名前で?どんな声で?
唯一の荷物のダッフル・バッグの中には身の回りの物だけで、手がかりになるものはない。衣類と洗面用具だけ。そして本が一冊。サリンジャーの”ナイン・ストーリーズ”のペーパーバッグ。ありふれた版で、手がかりにならない。ぱらぱらめくっていると、奥付けに細い字で書き込みがあった。
”Happy Birthday. From S to E.”
Sって誰だ?Eって俺のことか?これは古本で全然、俺と関係のない書き込みかもしれない。でも妙な確信があった。俺はSといた。Sは俺のことをEと呼んでいた。
Sに会いたい。
結局、俺はシンセに加えて、ヴォーカルのかなりの部分を任されて、ほとんどメイン・ヴォーカルと言ってもいい扱いになってしまった。
「いいのか?俺は先のことは約束できないよ?」
「いいんだよ」と平太は笑った。「今回のことでつくづくわかった。俺は歌手じゃなくて作曲家なんだ。自分がメインで歌えないことより、曲のクオリティが下がる方がツラい。今回限りのゲストでもいい。この曲がイメージ通り仕上がる方が、俺には重要なんだ」
ムリヤリ3日で10曲仕上げさせられた。寝るヒマもない。でも毎日、必ずホテルに着替えに戻った。Sが来るんじゃないかと思ったからだ。Sは男だろうか女だろうか。子供か大人か、たったひとつの手がかりは本の書き込みだけだ。指で細い文字をそっとなぞってみた。
本を手にしたまま、俺はうとうとしたんだろうが。夢のように、トランスのように、イメージがスパークした。泣いている小さな女のコ。声のもらさず、背を向けているけれど、肩の震えで泣いているとわかる。
俺は女のコを泣き止ませたい。でも彼女が見つからない。きっと今もどこかであのコは一人で泣いているんだ。
Sを見つけなくては。
レコーディングは順調に進んだ。
10曲が10曲とも恋愛の歌だ。他に扱うべき主題はないのだろうか。
とにかく”君”とか”彼女”と歌う時、あの細い文字や夢で見た泣いている後ろ姿が浮かんで、歌詞が妙に説得力を帯びてしまった。
「銀ちゃん、化けたなあ。どうしたんだ、その艶のある声」
「山さん、ヤボだよ。銀は恋をしてるんだよ。なあ?」
徹のいつもの茶化しに、俺は真っ赤になってしまった。
「銀、本気か?寝るヒマのないくせに、どこで女の子を見つけるんだ。あ、それとも記憶が戻った?」
平太のマジメな声に、俺はかぶりを振った。
「いや、何も思い出してない。心配しないで」
「バカ、俺達に気をつかうな。帰るところを思い出したら、遠慮せず言えよ」
俺は平太の肩をポンと叩いた。
「何があっても、録音終わるまではここにいるから」
1日休んで、ジャケット用の写真撮影が入った、スペース・ニードルやクラム・ドームのようなベタなスポットばかり行くので笑ってしまった。俺はメンバーとカメラマンの間の通訳に徹するつもりだったが、平太が写真に入れ、と主張する。
「俺はいいよ。単なる助っ人だし、今回限りかもしれないし。それに・・・写真が出回るの、怖いんだ」
「怖い?」
「俺は何かから逃げてるのかもしれない。誰かから恨まれてるのかもしれない。事情がわからず、自分で自分を守れない状態で、指名手配の写真を自分でばらまくマネをしたくないんだ」
「うーん。じゃ、これだ」
平太がガンマンでもかぶりそうな黒いつばの広い帽子を貸してくれた。山さんがサングラスも貸してくれた。スタイリストが面白がって、
「どうせなら、4人おそろいにしたらどう?」と、全員に黒尽くめの衣装をそろえてくれた。
黒い帽子にサングラス、黒いマント、黒いスーツに黒いクツ。
「ピュージェット湾の4悪人ね」とスタイリストの赤毛の美人が笑った。
「もったいないよなあ」と山さんが言い出した。
「銀ちゃんなら、ピンでグラヴィアに耐えるのになあ。えりかに替わってアスパラの顔になってもらえるのに」
「ムリ言って、銀を困らせるなよ。銀は帰るところがあるんだ。いつまでも俺達につき合わせておくわけにはいかない」
平太は怒ったような硬い声で言い切った。
「でもホント、いい声だよね。平太の音程ばっかり正しくてマジメくさった歌より、よっぽど女のコにアピールする。ファンが増えるぞ、きっと」
「バカッ、徹、お前まで何言い出すんだ。俺達もう、10日も銀を拘束してんだぞ。そのせいで、銀は自分の家族も探しに行けないんだぞ」
「その話だけど・・・」と俺が言い出した。「このまま自分の家族も仲間も見つからなくて、記憶が戻らなかったら・・・俺、ホントに君らについてっていいか?日本に帰れば通訳は要らないかもしれないけど、バックコーラスでもタンバリンでも何でもやるよ。君らは今、俺の唯一の知り合いなんだ」
平太は何も言わずに俺に抱きついて、肩に頭をのせた。
「心配するな、バカ。このまま行くとこが見つからなかったら、ちゃんと俺達が面倒見てやるよ。例え、おまえがヤクザに追われているヤクの売人だろうが、守ってやる」
「うおぉ、熱烈な告白だな」と徹が茶化した。
「子供は心配しないでいい。オジさん達に任せておきなさい」
山さんがにこにこして言った。
録音があと3日という時、スタジオ・オーナーのひとり、トビーが「君達、滞在を3日ばかり延ばす気はないか?」と言い出した。
「私の持ってるクラブで、ライブをやってみないか。うまくすれば、10日延びた分の旅費くらい稼げるぞ」
まさに降って湧いたような話だった。ステージ・チャージを取られないどころか、出演料を小額ながら出してくれて、それなりにプロモーションもしてくれるらしい。つまり初めて海外での出演依頼。
「シアトルはアジア系が多いし、かなり動員できると思うな。それに君らの歌は半分くらい英語だしね。ちょっとステーツにいないタイプのバンドだから、うまくやれば当たる」
急遽、プロダクションと交渉することになった。これまでマネージャーとえりかのことを伏せていたが、とうとう隠し切れなくなってしまった。プロダクションは、そっちでパニックでなって3日間の小さなライブなぞどうでもいい、とばかりに許可が出た。
それで、録音の合間に、さらにアスパラのレパートリーを特訓させられることになった。
「銀、お前、いちかばちか、指名手配の写真を配る気はないか?」
「うん。俺も頼もうと思ってた」
Sがポスターを見て、会いに来てくれるかもしれない。
「やっぱりトリはこれだね」
”オンリー・ワン”というえらくスタンダードなラブ・バラードだった。スローテンポなので、表情をつけないと間が持たない。でも歌いながら、照れてしまう。
「照れる余裕なんかあるか。銀、イメージ・トレーニングだ。この歌の女の子は、どんなコだと思う?」
平太の指導が入った。
「え、知らないよ」
「イメージしてみろ。背は高いか低いか?」
「え。けっこう高い方。俺のあごくらいに目がくるんだ」
「・・・えらく具体的だな。髪は?」
「黒のストレート。腰ぐらいの長さ」
「ふうん。性格は?」
「かわいくないところが、かわいい」
平太が噴出して、げらげら笑い始めた。
「いいじゃん。銀、その子に歌ってるつもりで歌えよ。かわいくて、かわいくない彼女に贈るラヴ・バラードだ」
俺はまた赤くなってしまった。
「ちなみに彼女の名前は?」
「わからないんだ。Sがつくということしか」
「おい、Sのつく女の名って何がある?」
平太がみんなに聞いて、3人で列挙し始めた。
さやか、さゆり、シーナ、セリーナ、しずか、ソニア、スージー、ソルヴェイグ、サーシャ、すみこ、シンシア、サラ・・・
「あ、サラ!サラだ、彼女の名前」
平太がにっとわらった。
「決まりだな。ソング・フォー・サラだ。心をこめて歌えば、サラが会いに来てくれるぞ」