サクヤは治療槽の側面を指差した。
「ほら、ここがマイクになってて、外の音が聞こえるの。そのテーブル、こっちに移動しましょう。この子も会話に参加している気分になれるでしょう?」
 子供はまだ眠ったまま、薬液の中を漂っていた。賑やかな祭りの音楽も、その耳に届いているのか、いないのか。
「さて、まず何から話しましょうか」
「まず、俺が何をする予定か、だな」
 サクヤはしばらく水槽の中の子供を見ていた。
「順序だてて話すとね、まず、私とエクルーのいた星は昔壊れちゃって、もうないの」
「うん」
「それで、その星の生き残り、というか子孫がいないか探しているの」
「うん」
「で、それらしい子がひとり、ペトリにいることがわかったのね」
「ペトリって、あの隣りの惑星か?」
「そう」
 ジンが身を乗り出した。
「あそこ、人が住めるのか?」
「救命ポッドか何かで漂着したらしいんだけど」
「でも、あそこはここより磁気嵐がひどくて、保険局のレスキュー船でも下りられないって有名だろう?」
「そう。それで、太陽のフレアとか黒点活動とか観測して、ペトリに行くタイミングを計っているんだけど」
「けど?」
「のんびりしてられなくなって」
「何故だ?」
「ペトリもね、壊れちゃうことがわかったの」

 ジンがガタッと立ち上がった。
「目が開いているぞ!」
 治療槽の中の子供が、目を見開いてガラスを叩いていた。瞳は焦点を結んでいない。閉じ込められた動物が出口を求めて闇雲に暴れるような、叩き方だった。
「セバスチャン、音楽落として!ジン、何か話してあげて!」
「何かって、何をだ?」
「何でも、この子が落ち着くようなこと!」
 サクヤは薬品庫に走っていってしまった。子供は、両手両足でガラスを蹴りながら、口からボコボコ泡を吐いている。
 カプセルは丈夫で、子供が蹴ったくらいでびくともしなさそうだが、子供の細い手足の方が折れそうで心配だ。
「おい、お前、落ち着け!」   ジンは声をかけてみた。自分でも間抜けなことを言っていると思う。
「大丈夫だ。ここでお前を傷つけるヤツはいない。ずっと見張っててやる。守ってやるから。安心して休め。ゆっくり眠って、身体を直すんだ。な?」
 いつの間にか子供は暴れるのをやめて、ジンの顔をじいっと見つめていた。手を伸ばして、ガラス越しにジンの手と自分の手のひらを重ねた。
「大丈夫。もう大丈夫だから」
 ふっと緊張の糸が切れたように目を閉じて、また子供の身体が薬液の中を漂った。

 いつの間にか、サクヤが側に戻ってきていた。
「良かった。落ち着いたみたい。念のため、トランキライザーを注射しておくわ」
 慣れた手つきで、シリンジに薬剤を吸い取り、チューブに注入した。

「どうして、あんなに急にパニックを起したんだろう」
「音楽のせいか、私達の話のせいか、その両方か」
「音楽?ああ、確かにさっきのとこ、ちょっと不気味だったよな」
 村祭りの音楽は、嵐を予感させる切迫したフレーズが終わって、生命力に満ちた賑やかなクライマックスを迎えていた。
「さっきの所はね、生け贄の踊りなの」
「生け贄!?」
「もちろん、メタファーよ。昔はどうだったかしらないけど。こんな厳しい土地でしょ。大地の芽吹きを回復させるために花嫁が捧げられるのよ。もちろん、村一番の美人で乙女ね。今ではこの大地の花嫁は、春祭りの後すぐお嫁に行くことが多いの。ほら、神様のお下がりだから縁起ものなのよ。この音を録音した時も、祭りの後、そのまま結婚の祝祭になったの。あ、ほら、この歌、プロポーズよ。次に花嫁が返事の歌を返すから」
「へええ」
「この子も落ち着いて、聴いてるみたい。不注意だったわ。妹さん亡くしたばかりなのに、あんな歌、聴かせちゃって」
「歌の意味がわかったんだろうか」
「言葉の意味がわからなくても、イメージや雰囲気をつかむってことはあるでしょう。あなただって、うちでセバスチャンがかけてるトッカータとフーガをいつも変えさせるじゃない」
「だって、不気味じゃないか」
「そういうことよ」
 ジンはしばらく黙り込んで、子供寝顔を見つめていた。まだ手のひらに、さっき触れた感触が残っているようだった。

「俺たち、何の話をしていたんだっけ」
「ペトリに私達の仲間がいるので、ペトリが壊れる前に連れてきたい、という話」
「いつ壊れるんだ?」
「完全にバラバラになるのは10年以上先だけど、もう予兆が始まっているの。この距離で、あの大きさでしょう?崩れたところから、ダストやフレークが降ってくる。潮汐力が変わるから、気候も変動するし、おそらく自転軸が変わると思うわ。つまりこのイドラもこのままじゃ無事じゃないの」
「大事じゃないか」
「まあ、コロニーからの移民や居ついているパイロットなんかには退去命令が出るでしょうけど、原住民はどうするかしら」
 サクヤは視線を子供に移した。
「この子だって、もう帰る星がない。命がけでここに逃げてきたんだもの」
 ジンにも、だんだん話の流れがわかってきた。どうも、今日の午後、嵐の直前にこの子供を拾った時から、すっぽり巻き込まれてしまったらしい。
「それで、俺は何をしたらいいんだ?」
 もう観念した気分だった。
「ペトリの生き物と水をそっくりイドラに移したいの」
 サクヤはにっこり笑って、こともなげに言った。