クマのゲリラ

F.D.2548


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 サクヤが温室のカウチでうたたねをしている。
「サクヤ、風邪ひくよ。寝るならベッドに行きな」エクルーが声をかけた。

 何かつぶやきながら、サクヤは顔の横に投げ出した腕を動かした。片方の手を軽く曲げ、指をそっとくちびるにあてている。
 赤ん坊のように無防備に見えて、エクルーの胸がズキンと痛んだ。

 しまった。近頃、こうした不覚を取ることが多くなった。14になって、首すじや手足がほっそりと伸びてきて、声が落ち着いた深みを持つようになった。真っすぐな黒い髪を肩まで伸ばしている。その髪をかき上げたり、エクルーの方を見上げたり、クツに足を通したりする時の何気ないしぐさに、いろいろ胸が痛んで厄介だ。
「まったく、いつまでも赤ん坊だな」
 思いとは裏はらなことをつぶやいて、サクヤを抱き上げた。こうして抱いた時、昔は胸の中にすっぽり入ったのに、今は頭が肩のすぐ下までくるし、片方の胸からしなやかな足が下がる。
 首すじからフルーツのバスソルトとミルクと何か甘い香りが漂うのを努めて意識しないように顔をこわばらせて、サクヤを寝室に運んだ。

 ダイニングを通った時、キジローがサクヤに贈った大きな黒いクマのぬいぐるみがぽつんと一人でテーブルについているのに気がついた。
 クマの左手の前にバーボンのグラスがある。置いてから、時間がたったのだろう。中の氷がすっかり溶けてグラスの下に小さな水たまりができていた。

 エクルーはちょっと立ち止まって、クマを観察していた。するとサクヤが目を閉じたまま静かな口調で言った。
「ルールなんでしょう?」
「えっ?」エクルーが聞き返した。
「あなたが言ったのよ。女の子を抱っこしてベッドに運ぶ。白いネグリジェ。クマのぬいぐるみは禁止。初めての夜のルールだって」

 エクルーは一瞬、頭が真っ白になってサクヤを取り落としそうになった。
「私、また、エクルーをいじめてる?」
 まだ目を閉じたまま聞く。
 からかう口調ではない。落ち着いた声だ。それで我に返って答えた。
「ああ、このうえなくね。君はホントに俺をいじめるのが上手だよ」
 そう言いながら寝室に入って、てきぱきとサクヤをベッドに入れて、毛布とキルトでくるんだ。
「だって5年経ったわ。正確には5.36年よ。アイスクリームとチョコレートは解禁になったんじゃないの?」
 サクヤは今度はぱっちり目を開けて聞いた。
「それはよりけりだ」
「何によりけりなの?」
「個々人の発達状態だ」
「つまり、まだ私は未発達でそそられないって言うのね」
 サクヤがため息をついた。

 エクルーもふーっと長いため息をついた。
 すぐ立ち去るというプランAをあきらめて、プランBに移る。説得だ。いすを後ろ向きにベッドの横に引き寄せてまたぐと、いすの背に両腕を預けて座った。普通に座るより安全な気がするからだ。
「俺はね、まだ蝶になってないサナギをこじ開けるようなマネをしたくないんだよ」
 サクヤが顔をしかめた。
「もう少しグロテスクでない例えはできなかったの?」
「言い直してもいい。生物学実験でつぼみをメスで解剖して、これがめしべでこれがおしべとステンレスのトレイに並べるようなマネだ。実際、グロテスクな話なんだよ。その花はもう開くことはない。損なわれてしまうんだ、永久に」
 サクヤは身体を起こして、曲げたひざに上体を寄せて丸まった。そうしてエクルーをじっと見つめた。
「アルがね、エクルーは成人で責任があるから、まず自分から口説いてこないだろうと言ったの。だから、こうして私から歩み寄ったのに」
 エクルーは再び長いため息をついた。
「さすがアル、するどい洞察力だ。だが君は2つ間違いをおかしてる」
「何?」
「まずアルに相談したこと。第2にこれは歩み寄ったと言わない。ゲリラ攻撃だ」
「だって他に誰に相談するの? スオミはいさめるだろうし、メイリンかイリスだと無責任にあおるだけだろうし、ジンだったら……」

 サクヤが相談を持ちかけた時のジンの反応を想像して、エクルーはつい吹き出してしまった。
 今度はふうと短くため息をついて身体を起こした。
「寝たフリだったんだな。眠くなさそうだ。何か飲み物を作ってくる」
「ホットミルクだったら要らないわ。子供扱いしないで」
「ほう。大人な君は何が飲みたいんだ?」
「コーヒー」
「却下。眠れなくなる」
「じゃ、ペヨの赤いお酒」
「ふむ。いいかもしれない。レモンを垂らしてカクテルを作ってやるよ」と立ち上がった。
 ドアのところで振り返って、エクルーが言った。
「サクヤ、知ってるかい? 子供扱いするなと怒るのは子供だけだ」
「知らない! もう!」

 エクルーは片手に赤いロンググラスが3つのったトレイ、片手に黒いクマを持って寝室に戻って来た。
「どうしてグランパのクマ……」とサクヤが言いかけた。
「だってかわいそうだろ。あんな室温のバーボン持って、一人でうなだれてるなんて。カクテル・パーティーに入れてやろうぜ」
「つまり……」
「そう。つまり俺はあんなゲリラ攻撃に屈するつもりはない。ちゃんと交渉して相互理解を深めるよう要請する」
 サクヤはため息をついて、エクルーが差し出したグラスを受け取って一口飲んだ。
「うえ、甘い。ソーダばかりでお酒の味しない。自分のだけジンを垂らして」
「いい鼻だ。俺とキジローは飲酒年齢だ。未成年に酒を飲ましたとばれれば、本当はこれだけで俺は逮捕されるんだぜ。ましてや……」
「ましてや何?」
「忘れてくれ。これ以上いじめるなら、おれはジンのとこに家出するぞ」
「行き先を告げてから行く家出なんてあるかしら」
「本当に君は口が減らないな」
「先生がいいもの」

 2人とも同時に笑い出して、空気がゆるんだ。クマが戻って来て作戦中止になったことで、本当はサクヤもほっとしたのだ。
 キジローの分のグラスに取りかかりながら、エクルーが脅すように言った。
「しかし、サクヤ、アルだったからいいけど、そんな相談を男に持ちかけたら、ベッドに連れ込んでいいサインだと誤解されるぞ」
「それはプランBよ」サクヤは冷静な口調で言った。
「プランB?」
「このままいつまでもエクルーが歩み寄ってくれないなら、大学で私にモーションかけてきてる男の子たちの1人に相談する。きっと彼は、冷酷なオジサンに囲われてる私に同情したフリをして、私に短期集中実習をしてくれるわ。そうすれば、私は交渉を有利にする技術を覚えることができ……」

 エクルーががしゃんとグラスをトレイに置いた。
「冗談だろう?」
 サクヤはあくまで冷静に言った。
「冗談じゃないわ。他にどうしろと言うの?」
 頭が真っ白になって、エクルーはサクヤに飛びかかった。
「そんなウスノロに頼むくらいなら、俺がその実習とやらをしてやる。今ここで」
 サクヤの両腕を押さえつけて、キスをした。

 叫び声を上げようと口を開けていたサクヤは、舌が入ってきたのでびっくりした。もがいて逃れようとしても、エクルーの重い身体にがっちり押さえ込まれていて身じろぎもできない。
 エクルーはくちびるを離して、今度は首すじに口を押し当てた。甘い香りに目まいがする。

 サクヤがガタガタ震えながら、涙を流しているのに気がついて、エクルーは全身がさあっと冷たくなった。
 スカートがたくしあげられて、太ももまで見えているし、えりが引き下げられて白い胸元がむき出しになっていた。

 はじかれたように身体をベッドから起こして、部屋から飛び出していった。
 しばらくして戻ってきたエクルーは、クローゼットを開けてサクヤの旅行カバンに着替えを詰め込んだ。
 カバンとサクヤのコート、ブーツを抱えて出て行ったと思うと、すぐ戻って来て、サクヤを毛布でくるむと抱き上げた。足早にハンガーに入ってヨットの後部座席にサクヤを放り込んだ。

 ヨットがドームを離れると、まだ歯をカチカチ鳴らしながら、サクヤが聞いた。
「ど……どこへ行くの?」
「アルに電話した。君をスオミの診療所に連れて行く。君にはシェルターが必要だ。君は俺から避難する必要がある。少なくとも1週間は帰ってくるな。また怒り狂った俺に襲われるからな」
 初めて聞く突き放した言い方に、サクヤはぞっとした。
「それとも今から派出所に行きたいか? 俺は大人しく証言するぜ? 君はしかるべく施設に保護されて、俺は2度とサクヤの10m以内に近づくなと禁止命令を受ける。いや、刑務所か、もしかすると精神病棟にブチ込まれるかもしれない」
「やめて……」
「イカれたことばっかり言ってるからな。石の力だのミヅチだの、元恋人の子供として生まれ変わってきただの……」
「やめて!」
「18で博士号取るような、半端な秀才は抑圧されて精神のバランスを失った、とかもっともらしいことをカルテに書かれて……」
「やめて、やめて、やめて!!」

 エクルーは思い切り逆噴射をかけた。ヨットは2回転半してななめに地面につっこんだ。
 土ボコリがおさまって静まり返ったヨットの中でサクヤが泣きながら訴えた。
「エクルーは悪くない! 悪いのは私なの」
「ああ、君の勝ちだ。おめでとう。プランB、見事に成功。気分いいだろう」
 そう言い放つと、エクルーは操縦貫につっぷした。
「……狂った方がマシだ。君を傷つけてしまった。君は損なわれてしまった。もう君の花は咲かない! 俺はその花を見られない! 俺は何もかも失った!」

 悲痛な叫びに頭をなぐられたようなショックを受けた。”違う! 私はそんなに弱くない!”と叫びたいのに、のどに大きな氷の塊が入っているように言葉が出てこない。
 身体の震えが止まらない。涙が止まらない。

 エクルーは再びヨットを発進させると、黙りこくって診療所を目指した。
 トレーラーの外に出て待っていたスオミにサクヤを預け、「どうしたっていうんだ?」と聞くアルに着替え一式を渡した。
「迷惑かけてすまない。他の荷物もまとめておく。サクヤをよろしく頼む」
 そう言い残すと、後も見ずに傷だらけ泥だらけのヨットで去った。サクヤは泣き崩れて地面にへたり込んだ。

 一瞬で何もかも失った。2度と取り戻せない。永久に。


「エクルーが来た!」
 泣きはらした赤くはれた目で、サクヤがベッドから転がり出て来た。
「エクルー来たでしょう? ヨットの音がしたの。あの音はエクルーのヨット……」
 うわ言のように言いながら、トレーラーから飛び出して、立ち尽くした。確かにエクルーのヨットがトレーラーの前に止まっていた。

 運転席は空っぽだった。そして運転席以外の全てのスペース、屋根のボックスから後ろにひいたコンテナまで、ぎっしりときちんと仕分けして梱包されたサクヤの荷物がつまっていた。
 ナビゲーター・シートに無表情に座った黒いクマのぬいぐるみを見て、再び涙がこみ上げてきた。

 つまりエクルーは本気なのだ。本気でサクヤから離れようとしている。サクヤを守るために。
 トレーラーから出て来たアルが、ヨットの荷物を見てつぶやいた。
「ふーん。こりゃ徹底的だな。いや、偏執的か? けっこう思いつめるタイプだったんだねえ」
「アル! アルのヨット出して! 私、ドームに戻る! エクルーにあやまらなきゃ……2度と会えなくなっちゃう!」
 取りすがってなくサクヤを抱き上げて、アルはトレーラーの中に入った。
「まあ落ち着いて。ドームは俺が見てくるから。サクヤは着替えて、顔洗って、朝メシを食っておくこと。そんなはれたお化けみたいな顔で追っかけても、ヤツはますます逃げるだけだ。わかった?」
「……わかった。ありがとう。」
「昨夜のうちにメイリンにメールを打っておいた。あいつがウイグルに現れたら、こっそり知らせてくれることになってる。安心しろ。あいつは間違っても首吊るタイプじゃないから」
 サクヤが悲鳴を上げたのでスオミがしかりつけた。
「アル! あなたが怯えさせてどうするの! 早くドーム見てきて。向こうについたら電話ちょうだい」
「了解。あとは頼んだ」

 アルはヨットで出て行った。
「さあ、あなたは着替えて。風邪ひくわ。それとももう少し寝る?」
「眠れない。涙が止まらないの。エクルーに会いたい。今すぐ謝りたい……」
 子供のように泣きじゃくるサクヤを、スオミはぎゅうっと抱きしめた。
「私がバカだったの。エクルーは悪くないの。信じて」
「信じるわ。あなたたち2人とも悪くない。ただ若くて、ちょっとオロカなだけよ。そして2人ともお互いがすごく大事で失いたくないのよね? だからそんな事しちゃったんでしょう?」

 サクヤは泣き止んで、スオミの顔を見上げた。まだひっくひっくとしゃっくりは止まっていない。
「あなたはまだエクルーが好きで離れたくないんでしょう? だったら大丈夫。エクルーもきっと同じ気持ちよ。とにかく2人とも頭を冷やさないと、ね? 今の勢いでぶつかったら、またケンカしちゃうわよ? さ、着替えて。アルから連絡があったらすぐ動けるようにしておきましょう」

 サクヤは着替えて、カモミールティーとスコーンを前にテーブルについていたが、何を食べる気にもなれなかった。
 電話が鳴った時、はねるようにテーブルを立った。スオミは指を口にあてて、しーっと言うとスピーカーボタンを押した。
「アルだ。ドームは空っぽだ。セバスチャンもエクルーがどこに行ったか知らないらしい。ジンのとこにも行ってない。これからグレンのとこ回ってみる。サクヤは? 落ち着いた?」
「横に立ってる。まだ泣いてるわ」
「サクヤ、落ち着け。とにかくあいつの寄りそうな所を回ってみるから。宙港のエライ人に頼んで、ヤツに離陸許可を出さないように管制に指示を出してもらった。とりあえず、テトラもタケミナカタもハンガーにあったし、朝イチのシャトルの乗客名簿にヤツの名前はない。捕まえるのは時間の問題だ。ちゃんと朝メシ食えよ。スオミ、頼んだよ」
「わかった。ありがとう。気をつけてね」
 スオミが電話を切った。

「エクルーいるよ?」
 振り返ると、パジャマ姿のフレイヤが台所に出てきていた。まだ寝ボケまなこだ。
「えっ?」サクヤとスオミがびっくりした。
「エクルー探してるんでしょ? いるよ?」
「どこに? フレイヤ、教えて。連れてって。エクルーに会いたいの。会わなきゃいけないの。どこ?」
 フレイヤは眠気のふっとんだ顔でにいっと笑うと、「行こ」とサクヤの手をとって消えた。

 スオミは真っ青になって、アルを呼んだ。
(フレイヤがサクヤと消えちゃったの! エクルーがどこにいるかわかるってフレイヤが言い出して、2人で飛んで……!)
 切迫したテレパシーの強さに、アルは頭がガンガンした。
(スオミ、落ち着け。君までパニックになるな。深呼吸して。ほら。ゆっくり息を吸って、吐く。もう一度、吸って、吐いて……落ち着いた?)
(……ええ。少し)

「どことは言わなかったんだな?」
 アルがスオミの横にすっと現れた。
「ヨットは捨ててきた。フレイヤが一緒ならエクルーは見つけやすい。大丈夫。今回はシャマーリの代わりに俺が平手張ってやるよ。サクヤばかりかスオミまで泣かせたんだからな」
「私は泣いてないわ」
「泣いてるよ。見てみろ、その泣きベソ顔」
 アルがスオミの濡れたほおにキスをした。抱き寄せてすっぽりスオミの身体を包む。
「大丈夫。すぐ見つかるさ。後でガキ共3人におしおきしてやろう。悪いけど俺はちょっとわくわくしてるよ。こんな大きな捕り物、久しぶりだ」
 スオミはアルの鼻をぎゅっとひねった。
「よくこの状況で楽しめるわね」
「フレイヤを信じてるから。君もだろう?」
「……ええ。そうね。信じてる」
 スオミはやっと微笑んだ。
「そうだわ。私、フレイヤもエクルーのことも信じてる。きっと大丈夫ね」
「おっ、やっと奥さんの心配性が治ったぞ。おめでとう」


 サクヤは身体の真ん中に痛むような冷たさを感じていた。真っ黒で冷たい。
 ここはどこだろう? エクルーはどこにいるの?
 真っ暗な空間が突然、さざめく青い小さな星々に照らされた。
(ココダヨ! ココニクレバイイ!)

「サクヤ!」
 フレイヤにぎゅっと腕をつかまれて我に返った。手をつないで3度ほどテレポートしながら、フレイヤはキョロキョロした。
「おかしいな。この近くなんだけど、入り口が見つからない。サクヤのパパ、どこにいるの?」
「私のパパ?」
 問い返しながら振り返ってサクヤはびっくりした。3つ子の巨人!
「エクルーはパパといるの?」
「あ、そのイメージ……わかった! 北から流れに乗って入るのね、青い星を目印に。行こ!」
 フレイヤはサクヤの手を取ってまた飛んだ。

 またここに来ることになるなんて……。
 大学から休みで帰ってくる度に、この3つ子の真ん中に来てはパパに報告していた。といっても、いろいろ思い出しながら岩場のブッシュを散歩して、時々、1人でくすくす思い出し笑いをするだけだ。
(フレイヤやエクルーだったらこうしていてもパパと話せるんだろうな)と少しうらやましかった。
 でもこんなのも好き。エクルーが岩陰で昼ごはんを作っている間、花や鳥を探し歩きながら頭の中でパパに話しかける。時々エクルーの方を振り向いて微笑む。振り返ると、必ずエクルーはこっちを見ていた。

 それだけであんなに幸せだったのに。いつの間に私はこんなに欲張りになっていたんだろう。
 欲張って……全てを無くした。いや、まだ失ってない。エクルーを見つける。絶対に。

「ここからどうするかわかる?」北側の泉の洞でフレイヤが言った。
「水の中を、流れにのって南に下るの。水路の底にパパのいる地底湖の入り口がある」
 手をつないでまたイメージを見せた。
「……わかった。でも、おまじないって?」
 サクヤは赤くなった。
「ああ……あの水の中でも息ができるように冷たくないようにフィールドを作ってもらったの」
「何だ。それじゃ手をつないでれば大丈夫。行こ!」
 フレイヤはためらいもなく水に飛び込んだ。

 何だか以前来た時と印象が違う。明るい……というか活気づいてる感じだ。フレイヤといるせいだろうか?
 北の泉の石で漂いながら、フレイヤは耳をすましている顔をしている。
「何だか人がいっぱいいる。子供がたくさん……笑ってる」
「笑ってる?」
「うん。歓声を上げて……ケンカの見物をしてる」
「ケンカ?」
「うん。サクヤのパパとエクルー。エクルーが負けてる」
 サクヤの血の気がさあっと引いた。
「行こう! 地底湖に。流れに乗って……入り口がせまいの。フレイヤ、顔ぶつけないでね。底に沈みながら下るわよ。表面は急流で飲まれちゃうから……」
 サクヤはフレイヤの手を引っぱって、水路の流れに飛び込んだ。

 何てことだろう。
 パパ、エクルーは悪くないの。私が悪いのよ。エクルーを責めないで……。
「あった、入り口はあそこよ! 青い光がもれてる。一度、穴の入り口につかまって止まるわよ。タイミングを合わせて、つるっと湖に入ろう」
「わかった」フレイヤがにこっと笑った。「行こ!」

 乱流から静かな地底湖にふわっと下りながら、サクヤは驚いてキョロキョロ見回した。以前の静謐な空間はない。ガヤガヤ、ワーワーと賑わって、まるでサーカスのテントのようだ。
”兄ちゃん、がんばれ。脇が甘いぞ”
”アズア、もういっぺん放り投げてやれ”

 ゆっくりと沈んで底が近づくにつれて、2人の姿が見えた。湖に横たわるアズアの身体の上に、エクルーが浮かんでいる。右腕でアズアの肩をつかんで、じっと漂っている。
 わあっと声が上がった。
”いいぞ、アズア。のしてやれ”
”そんなヒョロ長のっぽ、のしちゃえ”
”おっ、まだ向かってくぞ”
 歓声が上がるのに、二人はじっと動かない。
「どういうこと?」とサクヤはフレイヤに聞いた。
「うーんと……あ、そうだ。」フレイヤはつないでないもう片方の手を湖の壁に押しつけた。

 指のすぐ先に正八面体の青い石がある。
 突然視界が切り替わった。

 アズアがエクルーを壁に押さえつけて、えり首を締め上げている。
”情けないな。そうやってサクヤとケンカするたびにここに逃げ込んでくるつもりか”
”ケンカじゃない。次もない。俺はもうサクヤの傍にいられない”
 首を自由にしようと、アズアの腕に手をかけてもがく。アズアの上腕をひねると同時に足でアズアの下腹をけって自由になった。

 ブーブーと野次が飛ぶ。  アズアがすぐに壁をけって、エクルーに飛びかかると今度は組みしいて関節をひねった。
”おまえが守るというから、ボニーがお前を信頼しているというから任せたんだ。それを何だ。今頃リタイヤだと?”
 エクルーの顔は痛みに耐えて真っ赤になった。
”俺はもうダメだ。何度も言ったぞ。サクヤを傷つけてしまった。他の男に頼んでくれ”

「私は傷ついてないわ! パパ! エクルーを放して!」