第二楽章


 温室から逃げるように飛び出していったアカネを見て、エクルーには思い出したことがあった。その記憶に反省して、セバスチャンたちのサボタージュに対して徹底的に問い詰めることができなかった。
 温室に戻って来たエクルーを、サクヤは大きな目でじいっと見つめた。
「何の話だったの?」
「いや、うん。要するに俺が不甲斐ないんで、みんなが心配してくれたって、そういう話」
「ふうん?」
 まだ、じいっと見ている。
「その話は忘れてくれ。それより申告することがあるんだ」
「ふうん?」 
「ええと、座ろうか」

 ”座る”というのは温室の中で、最近2人が開拓した死角に行く、という意味だ。南西の一角のひときわ植物が茂っている緑陰の窓辺にベンチやクッションを持ち込んで秘密基地を作ったのである。何でここまでホーム・セキュリティ・ロボットに気を遣わなければならないのか、という気もしないでもないが、どっちにしろカメラに監視されていると思うと落ち着かないし、1年のほとんどをイドラを留守にしている身としては、ロボット達の方が正当な住人のような気がするのだ。
「そんなにエクルーがうろたえるなんて珍しいわね」
 付き合いが6年ともなると、サクヤもエクルーのポーカー・フェイスを読むのがうまくなってくる。
「怒らないって約束してあげるから話して」
 ベンチに落ち着いたサクヤは、エクルーをまっすぐ見て、静かに言った。
「いや。怒っていいよ。きっと怒ると思う」
「ふうん。まあ、言ってみて」
「ええと、ね。さっきので思い出したというか、認識したことなんだけど、俺、この温室で誰かとキスしたことがある」
 サクヤは当惑した。
「あなたの”1pの論文”ゲームはやめてちょうだい。理論物理だろうが数学だろうが、結論を理解するには説明が必要なのよ」
「つまりね。温室の床で俺がうたた寝をしていた。俺はサクヤの夢を見てて、サクヤが”風邪ひくわよ、起きて”と傍にひざまづいたので、つかまえてキスした。サクヤが飛び起きて温室から走り出て行ったのを、俺は寝ぼけ眼で見ていた。今考えるとあれは、夢じゃなかったみたいなんだ」
「それで、夢のサクヤが誰だったかわからない、と言う訳なのね」
「うん」
 エクルーが小さくなって答えた。
「最低」
「ほら。”怒らない”と約束しなくて良かっただろ?」
 サクヤにじろっとにらまれて、エクルーは再び小さくなった。
「ちなみに、それはいくつの時の話なの?」
「9つになる前」
 サクヤはほっとした顔をした。
「何だ。そんなに前なの。じゃあ時効じゃない」
「だけど、君、8つの時のこと、覚えてるだろう?」
「・・・そうね。双方、覚えていたら時効じゃないわね」
 サクヤはため息をついた。
「さっきので思い出したってことは、相手がアカネだと思ってるのね?」
「アカネかアヤメのどっちかだと思う」
「じゃあ、2人とも子供だったんじゃない。過ちとは言えないんじゃないの?」
「それが・・・昔の夢を見てたんで、何と言うか気分だけは大人だったから、思いっきり手加減なしにキスしちゃったんだ」
 サクヤはまたじろっとにらんだ。
「エクルーは私を怒らせたいの?」
「ちがう。正直に言おうとしているだけだ」
   サクヤはまた、ため息をついた。
「8歳の女の子がそんなキスをされたら、たとえ好きな相手でもトラウマになっちゃうかもしれないわね」
「それか、キスの相手を好きになっちゃうか」
 サクヤがまたじろっとにらんだ。
「君のケースだよ」エクルーが指摘した。
「あ、そうか」
 6年前、ままごとのような結婚ごっこで誓いのキスをした。あれがサクヤの恋の始まりだった。

 サクヤは胸の前にクッションを抱いて、その上にばふっとあごを休めた。
「それで、どっちかわからないの?その後もずっと会ってたでしょう?」
 エクルーはしばらく考える顔をしていた。
「わからない。今はともかく、あの頃の2人はオーラも残留思念のウェーブもぴったり重なるぐらいそっくりだった。声も身体つきも身のこなしも、丸っきり区別がつかなかった。2人を見分けられるのは、イリスとメドゥーラだけだった」
「ふうん」
 サクヤは肩を落とした。
「仕方ないわ。でも、今後は気をつけてね?ジンが同じようなシチュエーションで、寝ぼけたあなたに何度かキスされたって言ってたわ。もう慣れた。驚かないって。何だかかわいそうで、いつもしばらく抱っこしてやるんだって言ってた。アルなんて面白がって、キスの相手をシロクマのイメージにすり替えてあなたがうなされるのを見て笑ってたんですって。その分じゃ、グランパにキスしてたって驚かないわ」
 エクルーが青くなった。
「とにかく、私、怒っていいのよね?じゃあ、3日くらいスオミのとこに家出してくる。薬草の処理に手が要るって言ってたから。反省して」


 サクヤはこのところ専用に使っている小さなボートに乗り込んだ。スオミのトレーラーは、最近宙港よりさらに南の大地で薬草を集めつつ、付近の集落を診療している。現在のトレーラーの座標を取得してボートに入力すると、特に何もしなくても勝手に連れて行ってくれるのだ。いつもはマニュアルにして操縦の練習をするのだが、今日はボートに任せてシートにもたれると、目を閉じた。
 エクルーはいつもあんなに鋭いくせに、本当にわからないのだろうか。気づきたくないだけじゃないだろうか。私だって、これまでアカネがショートカットにしたり、ジーンズやサファリシャツばかり着るのは、アヤメと区別をつけるためだと思っていた。でも、本当は、大きなサクヤと似ないようにしていたんだわ。アヤメは髪を腰まで伸ばして、淡い色のシンプルな服ばかり着て、知ってか知らずか印象がサクヤと重なる。抑制の効いた低い声で話して、静かに微笑む様子も。つまり、アカネだって自然にしていれば、エクルー好みの外見になったはずなのに。

 閉じた目に涙がにじんだ。
 アカネは、エクルーの夢の主を見たに違いない。自分はただ、間違えてキスされただけ。何て残酷な思い知らされ方だろう。そして今日、アカネを2度目の失恋をしたんだわ。私のせいで。

 スピーカーからスオミの声が響いて、物思いを破られた。
「ごめんなさい。裏に干した薬草を取り込みに出てたの。今、メッセージを聞いたわ。手伝いに来てくれるんですって?」
「ええ。3日間くらい泊り込みで。いいかしら?」
「助かるわ。フレイヤも待っているのよ。ここまで気をつけてきてね」

 トレーラーは無人だった。裏手に張った天幕をのぞくと、アカネが地面にあぐらをかいて薬研をひいていた。スオミが薬草の束を抱えて天幕に入ってきたとき、サクヤとアカネを無言で見つめ合っていた。
「本当、助かるわ。2人も助っ人が来てくれるなんて。雨季が来るまでに、全部ひいて木箱に納めてしまいたかったの。アルなら見張っていないと危なっかしいけど、2人なら安心して任せられるわ」
 スオミは2人の間に漂う緊迫した空気に気づかないフリをして、にこにこと話し続けた。
「診療所で患者さんが待ってるの。ここ、任せていい?アカネはこっちの袋のキナを頼むわ。サクヤはこれ。紫根。硬いからハサミで切りながらゆっくり粉にして。お願いね」

 スオミは診療所に入るなり、エクルーをモニターに呼び出した。
「あなた、何したの?」
「ええと」
「アカネとサクヤが来てるの。2人共、3日くらいがむしゃらに働きたいと言うの。ひとことも口を利かないで、枝をバツバツ切ってて、怖いったらないわ」
「すみません」
 スオミはため息をついた。
「仕方ないわ。私のところで預かりましょう。おかげで作業がはかどりそうよ」
「よろしくお願いします」
 エクルーはぼろを出さないように、最小限の言葉であいさつして通信を切った。