p 1 


 エクルーとサクヤはアズアの泉からひとつ南の泉に現れた。サルナシをとりによく通ったので、サクヤも景色を覚えている。採って来たサルナシはみんなお酒に漬けている。春祭りの頃、ちょうど飲み頃だろう。

 ふわりと着地すると、エクルーはサクヤの手を放して泉のほとりにあぐらをかいた。うなだれて、サクヤから目をそむけている。肩が震えているので、サクヤは何も言わずに自分もエクルーの後ろに腰を下ろした。
 エクルーの背中に自分の背中をくっつけて、空を仰いだ。
 晩秋の午後遅い日の光が岩山を銀色に輝かせている。冷たい空気が、甘く感じられる。
 サクヤはこれからクリスマスまでの季節が大好きだった。1年で1番昼が短い、寒さがこたえる時期だけど、1番可能性に満ちている。

 エクルーはなかなか話せるようにならなかった。言葉が出てこない。”エクルーにもらったら、セージの小枝1本でもうれしい”という言葉が呼び水になって、どうしようもなくサクヤの言葉や表情がよみがえってきた。思い出に圧倒されて、話すことも、立ち上がることもできない。

 オプシディアンに行ったばかりの頃、やっと起き上がれるようになったサクヤにパープルセージの小枝をつんで持って帰ったことがあった。10pもない枝なのに、胸が痛むような笑顔を見せたのだ。
 でも、その後、サクヤが自分のものになってくれないのが口惜しくて何度もいじめて泣かせてしまった。でも”俺が怖いか”と聞くと、”怖くない。エクルーが怖いわけない。あなたが私にしてくれることは、どんなことでもうれしい。”と言い張った。俺に押さえつけられて、真っ白い顔で目を見張りながら”あなたを怖くない”と。

 どうしてその言葉を信じることができなかったんだろう。
 どうして自分を信じることができなかったんだろう。

 自分がサクヤを思う気持ちも、サクヤが自分を思ってくれる気持ちも信じられなかった。俺が招いた事態なのに、俺は、俺とキジローの間で苦しむサクヤを何度となく責めてしまった、そしてその後はますます自分が嫌いになって持て余した。

 サクヤの前で、俺はずっと最低の男だった。なのにサクヤは1度も俺を責めなかった。いつでも受け入れてくれていた。どうしてだろう。

 オプシディアンを引き払ってイドラに移る時、サクヤのたいして多くない蔵書の間からセージの小枝がはらりと落ちた。変色して、もう香りもないのに。その小枝を見つけた時、俺はサクヤが散って初めて泣いた。

 エクルーがはぁーっとため息を吐いたので、サクヤもほっと息をついた。背中を離して向きを直ると、ちょっと斜め後ろからエクルーの顔を見上げた。
「大きなサクヤのことなの?」
「うん。……いや、いろいろだ。いろいろ思い出して何だか……ちょっと胸がいっぱいになっちゃって」
 サクヤは手をエクルーの腕にかけた。
「ムリに話さないでもいいわ。あのね、今日1番うれしかったこと何かわかる?もちろん、プレゼントのピアスもうれしかったんだけど…今までもね、時々、エクルーってぷいっと消えちゃうことあったでしょ。今日は1人で行っちゃわないで、私もつれて来てくれたのが、すごくうれしかった。余裕で私をからかったり、やさしい事を言ってくれたり、そんな所ばっかり見せてくれなくていいの。ぐるぐる悩んでるとことか、泣いているとことか、怒った顔も見せて。私もう子供じゃない。エクルーはパパの代わりなんかじゃない。丸ごとあなたを受け入れられるようになる。丸ごとエクルーが好き。置いてかないでくれて、ありがとう」
 エクルーはふり返って、サクヤの顔をしばらく見つめていた。そしてまたふいと目をそむけてうなだれた。
 向こうを向いたまま、エクルーがぽつっと言った。
「同じこと言うんだな」
「同じって、大きなサクヤと?」
「うん」
 サクヤはしばらく考えていた。
「それは……うん。きっと私と大きなサクヤが同じ気持ちだからよ」
「同じ?」
「2人ともエクルーが大好きだから。だから同じ言葉が出てくるのよ」
 エクルーはまたサクヤの方をふり返った。黙ってじっとサクヤを見つめている。

 サクヤはぴょんと立って、エクルーの腕を取ると引っ張って立たせた。
「寒くなってきちゃった。帰ろうよ。夕ご飯、私が作ったげる。エクルーはぼおっとしてていいから。ね、おうちに帰ろ」
「うん。うちに帰ろう」
 エクルーがサクヤの手を握った。


 サクヤが料理している間、エクルーが1回も台所に入って来なかったのは初めてだった。いつもは何度となく下ごしらえを手伝おうとしたり、味見しようとしたりして追い出されるのが常なのだ。エクルーはドームのデッキに吊したタープに寝っ転がって本当にぼうっとしていた。仕度ができた、とサクヤの呼ぶ声にも、2,3度めでやっと意味のある返事をして、のそのそとデッキを下りて来た。食事中にひとことも口をきかないのも初めてなら、サクヤの作った料理をほめなかったのも初めてだった。
 でもサクヤは、いつもだったらひとりでぷいっと出て行って消えてしまっていた時のエクルー今の目の前に見ているのだとわかっていた。今まで、きっとずいぶんムリしてたんだわ。私を引き受けた時、エクルーはまだ17だったのに。今やっとパパの振りをするのをやめて素の自分を見せてくれているのだ。
 サクヤは、エクルーがフォークをくわえたまま動きを止めて考え込むと、それとなく励まして食事を続けさせ、コップをひっくり返すと、大丈夫片づけるからと静かに言って、何とか全部食べ終わらせた。何だかグレンとこのちびさん達の子守をしてるみたい。
 食後のお茶のカップを目の前に置くと、エクルーはカップを持つかわりに、サクヤの手をぎゅっと握った。
「もう寝よう。俺眠い」
「でも食器を片づけなくちゃ」
「明日でいい。もう寝よう」
 これはいよいよ尋常じゃない。食べ終わった食器が15分以上食卓に残っていたことなどない。10人分のフルコースの皿でも、エクルーは口笛を吹きながらあっという間に片づけてしまうのだ。
「俺もう眠い」
 だだをこねるようにエクルーがくり返す。3才児のようだ。
 几帳面なサクヤは汚れた皿を片づけてしまいたかったが、甘えるエクルーを見ていたい、という欲求の方が勝った。
「わかった。もう寝ましょう」
 サクヤが立ち上がってもエクルーは歩き出さずじっとしている。仕方なく、サクヤは手をひいてサンルームに向かった。
「ほら、エクルーのベッドよ。早く入って」
「サクヤと一緒がいい」
 これにはいよいよ驚いた。いつもベッドに忍び込むのはサクヤの方なのだ。
「私の部屋がいいの?」
「一緒ならどこでもいい」
「じゃ、ここに入って。私もここで一緒に寝るから。パジャマは?」
「このままでいい」

 まったくもって異常事態だった。
「わかった。でもちょっと手を放して。明かり消さなきゃ……」
 エクルーが指をぱちんと鳴らすとライトが全部消えた。それでも月明かりがあるので真っ暗ではない。
「もう寝よう」
 サクヤは覚悟を決めた。
「わかった。もう寝ましょう」
 そう言ってエクルーと並んでベッドに入った。
 頭が枕につくかつかないうちに、エクルーは寝息を立て始めた。寝顔が月明かりにほの白く浮かんで見える。

 きれいな寝顔。つくづくとサクヤは見入った。
 こんなにじっくりエクルーが寝ているところを見るのは初めてかも。いつも私が寝つくまで本を読んでいるし、朝は私より早く起きてジョギングしてシャワーを浴びる。
 今夜は驚くことばかりだ。エクルーがまるで小さい男の子みたいに見えた。ううん、きっとエクルーの中に本当に小さな男の子がいたんだわ。今まで出てこられなかったのね。エクルーは7歳で記憶を取り戻したと言ってた。それ以来、大人として病身のサクヤの心配をし、アルやスオミとイドラの心配をし、キジローを見送り、大きなサクヤの世話をしてきた。エクルーは17年分の少年の孤独をうちに抱えて来たにちがいない。時々、それがあふれそうになると、ぷいっと消えて泣きわめく小さな男の子をなだめて来たんだわ。そうしてずっと閉じこめられていた男の子が、ようやくここで安心して眠っている。私の隣で、私の手を握って。何てかわいいんだろう。
 サクヤはチビ達を寝かしつける時に歌うイドリアンの子守り歌を小さな声で歌い始めた。

 考えたら私もずっと、自分の中の小さな女の子を閉じ込めて来たんだわ。エクルーがすごく大人に見えて、自分も早く大人にならなきゃ、とあせってしまった。
 大人にならなきゃ、エクルーにふさわしいパートナーになれない。
 大人にならなきゃ、エクルーの負担になってしまう。
 負担になれば、捨てられてしまうかもしれない。
 いつも切迫する気持ちがあった。エクルーは、いつも今の私が1番かわいい。どんな私でも、たとえ名前がサクヤでなくても私が大好きだ、とくり返し言ってくれていたのに。
 自分が感じている切迫感をそのままエクルーに押しつけて、追い込んでしまっていたのかもしてない。

 結局私たちって、ただの背伸びした男の子と女の子だったんだわ。

 2人の迷い子はやっとおうちを見つけて帰ってきた。やっと安心して、ぐっすり眠れる。
 2人で手をつないで。