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 次の日の夕方、再びサイモンがやって来た。
 ……何とアヤメを連れて。
「これで女性コーラスができるだろ? タンバリンでも持てばいいんだろうけど」
「春祭りの鈴が2つある。出してくるわ」とサクヤが言った。
 アヤメは少し当惑しているようだった。よく事情がわからないまま引っ張って来られたのは明らかだ。
「私、ジャズってよくわからないんだけど……」
「いいから。音楽に合わせて気持ちのままに声を出せばいいんだ。サクヤがベースに合わせてリズムを刻むから、アヤメはピアノにメロディーをのっけてくれればいい」

 サクヤとエクルーも少し当惑していた。
「天然だとは思ってたけど、これはもはや大物の域に達しているな」
「いいことかもしれないわ。エクルーもアヤメもめそめそしやすいから、サイモンみたいにちょっと鈍感で根が明るい人と付き合うと丁度いいわよ」
「そうなのかな?」
 エクルーは自信なさげに呟いた。

 蓋を開けてみると、1番ぶっ飛んでセッションをリードしたのはアヤメだった。
 身体を左右に揺らし、鈴を鳴らしながら、どんどん新しいメロディーをつむぎ出して、ピアノやベースと絡んでくる。アヤメと2人だと、サクヤも音楽の波に乗って、声を出す事が出来た。押すところ、引くところ、抑えて、抑えて、一気に駆け上がる。アヤメが自在にムードを操っている。
 気がつくと、30匹ばかりのホタルが温室に集まって、音楽に合わせて踊っていた。4人はびっくりしたが、音楽を止められない。
 ベースのソロ、ピアノのソロ、アヤメがアイ・コンタクトをして、また音が絡み始めた。

 思い切り引っ張ってその曲を終えたとき、拍手が聞こえたので、4人はまた驚いた。ホタルにもみくちゃになって、サユリとリィンが温室の床に座っていた。
「リィン! どうしたの?」
「チビとホタルに連れてこられた。どうやら、俺はまだ生きてるんだな? 変な天国だとは思ってたんだ。でも、情熱的にシャウトする天使が2人もいるなら、あの世も悪くない」

 アヤメは鈴を取り落とした。そして真っ赤になると、温室から走り出してしまった。
「えーと」
 サクヤは男3人を見渡した。
「私が追うわ。その方がいいわね」


 温室の西側のクマ岩がある丘にアヤメは立っていた。サクヤはアヤメの防寒着を持って丘に上った。ホタルが5、6匹ついて来ている。
「大丈夫? 風邪ひくわ。これ着て」
「ありがとう」
 アヤメは上着を着た。
「どうしたの?」
「自分でもよくわからない。恥ずかしかったの。歌ってる間、自分じゃないみたいだった。それでいて凄く自分をさらけ出してるようで気持ちよかった」

「リィンに見られたのが恥ずかしかったの?」
「わからない。そうかも。私、どんな顔をして温室に戻ればいいのかわからない」
「普通でいいのよ。一緒に戻ろう」


「お、歌姫2人が帰って来たぞ。セイレーン達に乾杯!」
 男3人と赤ン坊は車座になって、ワインを飲んでいた。
「今夜はサクヤも飲んでいいよ。ほら、アヤメも。君はちょっと生真面目すぎる。たまには酔っ払ったり、シャウトすることが必要だ。今夜はもう考えるな。飲もう」
 そう言いながら、エクルーがアヤメのグラスにワインを注いだ。
 アヤメは混乱して、グラスの中身を一気に飲み干した。すかさずエクルーがもう一杯注ぐとそれも飲み干した。
「頼もしいな」
「何だか煮詰まってたみたいだもんな」

 セバスチャンとアントンが、ハンガーからいろんなガラクタを運んできた。
「こんなものでいかがでしょう?」
「ありがとう。やってみよう。ほれ、リィン。サユリも。君達の楽器が来たぞ」
 そういって木の棒を2本ずつ配った。
「サユリ、カンカン叩いてごらん。そうそう」
 タムタム、スネア、シンバル代わりになりそうなものを並べた。

 サイモンがリィンにスウィングを教えた。酔っ払ったセイレーン2人はさっきより強力だった。リズム・セクションが入って切れ味が良くなった。
 アヤメは訓練された喉で、低音から高音まで自在に駆け抜け、ピアノとベースを引っ張った。みな、アヤメについて行こうと必死だ。アヤメのメロディをピアノが追い出すと、すぐ新しいメロディをかぶせてくる。
 スリリングでエキサイティング。意外やサユリが優秀なドラマーだった。ホタルもリーとかルーとかコーラスをつける。

 凄まじいクライマックスの後、アヤメがにっこり笑った。
「ああ、気持ち良かった」
 サユリもケタケタ笑っていた。後の4人はくたくたで声も出なかった。


 11時にエクルーはジンのドームに電話をかけた。
「アヤメとサユリがうちに来てるんだ。サクヤのベットで寝てる。えーと、アヤメは酔っ払っている。うん、今夜はうちに泊めるよ。温室でサイモンとリィンも寝てる。ワイン4本も空いたからな。明日の朝、ラボに行く時、一緒に連れてくよ。うん、じゃあね。おやすみ」

 エクルーは久しぶりにサクヤのカウチに座った。
「ここがこんなに賑やかになるのは久しぶりだよね。イリスがうちに来た時以来じゃない? ……楽しかった。何だかやっと喪が開けた気がするよ。サクヤ、君ももう泣くな。俺達元気にやってるからさ。心配しないで。おやすみ」




 アヤメはベットの上で飛び起きた。
 ここはどこ?
 自分の部屋じゃないのは確かだ。

 ドアが開いてサクヤが顔を出した。
「起きた? 良かったらシャワー使って? 今、空いてるわ。これ着替えよ。下着は新品よ。ちゃんと大人用だから安心して。仕度できたら朝御飯に来てね」
 アヤメはもっと混乱した。

 何故私はサクヤのベッドで寝てたの?
 自分でベッドまで歩いてきた記憶はない。
 どうしてこの家に大人の女性用下着のストックがあるの?

 混乱したままシャワーを浴びた。着替えはイドリアンのワンピースとケープだった。おずおずとダイニングに行くと、サユリがリィンにご飯を貰って上機嫌だった。
「あ、おはよう。朝飯食える?」とエクルーが台所から顔を出した。
「卵焼くから座って珈琲飲んでて。似合ってるよ……それ」
 それがイドリアンの服のことだと気付くのにしばらく時間がかかった。

 アヤメはリィンの隣に座って、珈琲を飲んだ。
「おはよう。……顔赤いぞ?」
「え?」
「あれだけの誉め言葉でそんなに嬉しいんだな」
 リィンがからかった。
「いえ、あの……何だか混乱してるの。昨夜の事をよく覚えてなくて。私何故ここにいるのかしら?」
 アヤメは身体を小さくしている。
「記憶が飛ぶほど飲んでないだろう?」
「……夕方ここに来たあたりから怪しいの」
「あれまあ。でも楽しそうだったよ? うん、あんなに生き生きした君を見るのはかなり久しぶりだ。ずっとしおれかけた白い花みたいだったけど、昨日は生命力に満ちあふれていた。君が音楽やってるのは正解だよ。君には必要なんだよ。いつもの ゛雨だれ゛ じゃなく、昨日みたいな元気な歌を歌う事が」
 リィンはサユリに甘い黄瓜を食べさせながら話しかけた。
「なあ、チビも面白かったよな。タカタカやって」
「タカタカ、ウー、タカタカ、デュー」
 サユリはスプーンを振り回しながら歌った。
「ほい、お待たせ。適当に色々盛ったから嫌いなものは残していいよ。後で俺が食うから」
 エクルーが大きなプレートとスープのボウルをテーブルに置いた。
 そう言われると残すのが悪い気がするし、でも残した物をエクルーに食べて欲しい気がする。ぐるぐる考えながら、アヤメはとろとろのスクランブルエッグとカリカリのベーコンとほかほかのビスケットを全部食べてしまった。いつもは朝に食欲があったためしがないのに。
「宿酔はないみたいだな。アヤメ、意外と酒に強いんじゃない?」とリィンに指摘される。
「そうなのかしら」と答えながら、コケモモ・シロップをかけたヨーグルトをすくう。

 何を食べてもおいしい。
 卵の甘さもベーコンの匂いも忘れていた気がする。
 天窓から射す朝日の中で、視界に入る全てが新鮮で愛おしく見える。テーブルの上のマグカップさえも美しい。
「何だか一度死んで生まれ変わったような気分」
 リィンがははっと笑った。
「多分、本当にそうなんだよ。良かったな、おめでとう」

「お、全部食べたな。偉い」
 エクルーが台所から皿とカップを持って出てきた。
「ごちそうさま。全部おいしかった」
「だろう? プロだもん」
 エクルーがにこっと笑った。その笑顔を見ても、もう胸が痛まない。
「お前、何のプロだよ」とリィンが茶化した。
「料理人、ベーシスト、ヘア・スタイリスト、時々、物理学者」
「楽しそうな人生だなあ」
「楽しいよ、実際」
 そう言いながら、エクルーは自分の朝食をせっせと平らげている。


 サクヤがキッチンに入ってきた。
「サイモンが起きてくれないの。だいぶくすぐったりふんづけたりしたんだけど」
「おし、手伝ってやろう。アヤメはサユリを頼む」
 リィンはサクヤと温室に向かった。

 エクルーは笑った。
「サユリを頼む、だってさ。どっちの妹かわからないね」
「そうなの。もう泉にいる時間の方が長いくらいなの。うちにいるのはリィンが来てるだけ。父さんはもう嫁にやった気分だって言ってたわ」
 エクルーはくつくつ笑いながら、ビスケットにサワークリームを塗ってかぶりついた。

 その様子に見とれながら、アヤメは改めて驚いた。
 こんなに穏やかな気持ちでエクルーと向かい合わせで座っていられるなんて。昨日までは心を殺して゛死んだフリ゛をしていたけど、今朝は生きてエクルーに微笑むことができる。
「あの、昨夜ベッドに運んでくれたのエクルー?」
「そう。君とサクヤと」
「ありがとう。重かったでしょう」
「つぶれたサイモンに比べたら軽いもんだ」
 アヤメは笑った。
 作り笑いじゃなく、本当に楽しかった。

「まだサイモンは起きないみたいだな。俺、ヤツの卵を焼いとくから、アヤメ、手伝ってやってよ」
「そうね。起こしてくる」
 アヤメはサユリを抱いて温室に入った。床にしいたマットの上でサクヤとリィンがプロレスをしていた。2対1でサイモンを攻撃しているのだ。サクヤはきゃっきゃと笑いながら、サイモンの胸に馬乗りになって跳ねている。
「そんなにしても起きないなんて、どうかしたんじゃないかしら」
 アヤメが膝まづいてサイモンの顔を覗き込んだ。
「大丈夫。生きてるわ。脈は正常」とサクヤが薬学生らしく言った。
「でももう起きてもらわないと。私も一緒に野営地に行きたいのに。フウチョウランの群落があったの。今日は写真撮っとかなきゃ」
「眠り姫は王子のキスを待ってるんだろ?」
 リィンがアヤメを見た。
「逆じゃないの?」
「細かいことはいいっこなし」

 アヤメは身体を屈めて、サイモンの頬にキスをした。
「サイモン、起きて? 朝よ?」
 起きない。何かつぶやいて、寝返りを打つ。
「頬じゃ駄目だろう」をリィン。
「そうよねぇ」とサクヤ。

 もう一度顔を寄せた。
「サイモン、起きて? 世界が生まれ変わったの。あなたのお陰よ? 音楽のお陰。ありがとう」
 そう言って、唇に軽くキスをした。

 サイモンは目を開けずに、腕だけ素早く伸ばしてアヤメを抱き寄せた。
「寝たフリだったの?!」
「違う。姫の接吻で世界は生まれ変わって王子が目覚めたんだ」

 サイモンはアヤメの腰と後頭部に腕を回して、深々とキスをした。アヤメは目を閉じて受け入れた。
 長い間さまよっていた迷路をやっと抜けた。
 もう雨だれを弾きながら涙を飲み込んだりしない。
 思い切りシャウトすればいいのよ。心のままに。

「さあ、本当に起きて? とろとろのスクランブルエッグとあつあつのビスケットが待ってるわよ?」
「人生最高の朝だね」サイモンが微笑んだ。