ピアノの森

F.D.2548

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 パーティーの3日後の夕方、サイモンが温室のドームを訪れた。
「エクルーがピアノを弾かせてくれるって」
「どうぞ。エクルーはまだジンのとこだけど、入って弾いてあげて?」とサクヤが招き入れた。
 温室に足を踏み入れたサイモンは圧倒された。
「凄いな。一つの森が丸ごと入ってるみたいだ」
「本当に森なのよ? ミミズクもヤマネコもネズミを捕まえにくるの。イドラに緑がよみがえる前からここはオアシスだったんですって。あの岩山の泉と繋がっているの。水も、エネルギーも」
「ルカにも見せてやりたいな」
「いいわよ。連れて来てあげて」

 サクヤは温室の一角にあるピアノに案内した。
「湿気がこないように、周りにヒーターを置いてるの。本当は良くない環境なんでしょうけど。アヤメがしょっちゅう調律してくれるから、音は狂ってないと思う。このピアノを弾くと、この森が喜ぶんだってアヤメがいうの。私もそんな気がするわ」

 サイモンはポロン、ポロンと鳴らしてみた。
「へえ、意外と音響がいい。それに低音が響いていい音のピアノだ。何というか……かましくない」
 グリーグを何曲か弾いた後、ショパンの「雨だれ」を弾いた。
 ……そして弾き終わる前にサイモンは鍵盤につっぷした。


「どうしたの? 大丈夫?」サクヤが心配そうに覗き込んだ。
 サイモンは絶望的な喪失感に圧倒されて、声が出てこなかった。
「サイモン?」
 サイモンは指を鍵盤に置いたまま、何とか顔を鍵盤から離したが、まだ身体を震わせている。
「誰かが、エクルーのことを愛してる……でも失ってしまったんだ。永遠に……」
 両手で髪をかきむしった。
「エクルーは君を解放したくて、笑って死んでいった。でも君は解放なんかされたくない。ずっとエクルーを思い続けた。そのことがエクルーを苦しめる。泣いているのは……君か? 石の声を聞いて泣いている。竜のために泣いてる。星のために泣いてる。子供のために泣いてる!」

 サイモンの声がどんどん切迫して大きくなるのでサクヤは怯えた。
「悲しみのあまり……星は自分を砕いた!」
 サイモンの腕をつかんで揺すぶりながらサクヤが叫んだ。
「サイモン! それは終わったのよ! もう星は泣いてない。竜も、子供も。私も泣いてない」
 両手でサイモンの顔を挟んで、自分の方を向かせた。
「ね? 泣いてない。今は私もエクルーも幸せなの。だから悲しまないで」
 サイモンはまだ身体が震えて、言葉が出てこない。
「立って。そのピアノから離れた方がいいわ。さ、こっちに来て」
 サクヤは手をひいて、サイモンをウィング・チェアーに座らせた。
「この椅子は “安全” よ。3年前買ったの。サクヤが座ったことのない椅子。サクヤの思いがこもってない椅子。エクルーはこの椅子しか座らないわ。特別に……サクヤのことを思い出したい夜以外は」

 サイモンは椅子の背にぐったりよりかかって、腕で目を隠した。
「そのサクヤは……君の事じゃないのか?」
「エクルーのお母さんよ。もう亡くなったの。休んでて……お茶を入れてあげる」

 甘い香りのハーブティーが入ったカップをサイモンに持たせた。
「ゆっくり飲んで。落ち着くわ」
 サイモンは黙ってお茶を飲んだ。サクヤも静かにお茶をすすった。
「エクルーは、母親の名を継いだ君と一緒に暮らしている……フィアンセとして? 何だかすごく不自然だな。君はそれでいいのか?」

「エクルーといられれば、何でもいいわ。私が名前をもらったのは偶然で、エクルーは私の名がサクヤじゃなくても好きになった、と言ってくれたの。だから、それでいいの」
 サクヤは自分のカップに目を落とした。
「あなたは物に残った気持ちが読めるのね。エクルーと同じ。私にも読めたらいいのに、と時々思うわ。そしたら、大きなサクヤの事がわかるのに。私は会ったことないの。どんな人だったのかしらっていつも考える。でもこの森が大好きで、ピアノの音に涙を隠して、エクルーを思ってたのはわかる。きっと素敵な人よね。私も仲良くなれたと思うわ」

 サイモンはお茶の香り静かに吸い込んだ。
「エクルーは幸せものだ。素敵な女性達に囲まれて……」
 サクヤは微笑んだ。
「本当よね。本人にそう言ってやって。未だに時々、サクヤの事でめそめそするのよ? アルも一緒になって……」
「アル?」
「アルは小さい頃、サクヤとエクルーに助けてもらったんですって。アルにとってサクヤは女神なの」
「何か複雑だな」
「簡単よ。サクヤはいつもエクルーが好きだし、エクルーはサクヤが好きなの。それだけよ。そして2人は泣いている星を助けたかった」
「よくわからないけど素敵な話かも」
「でしょう? だから私、大きなサクヤに嫉妬しないの」

 サイモンは14歳の少女の恋愛感に感服した。
 改めて温室を見回すと、風景が全然違って見えた。様々な思いを飲み込んできたピアノの森。
「僕が目を回したこと、エクルーに内緒にしててくれる?」
「いいわよ」
「このピアノを使用禁止にされると困る」
 サイモンはお茶を飲み干してピアノに戻った。
「まだ弾くの?」
「ピアノを慰めてやらないと」
「アヤメと同じこと言ってる」
「そうなの?」サイモンが驚いた。
「ええ。いつも弾きにくるの。自分ちにもピアノがあるのに。エクルーはリュートとかベースの方が好きだし、私はあんまり弾けないから……弾かないとピアノが傷むっていう意味かと思ってた。でもそうなのね、きっと。ピアノに残るサクヤの思いのために、レクイエムを弾いてくれてたんだわ。いつも繰り返し “雨だれ” を弾くのよ?」
「そうだったのか……」

「ねえ、サイモン。私に “雨だれ” を教えて? 私も弾けるようになりたいわ。まだ泣いてるサクヤのために」
「いいよ。でももっと明るい曲の方がいいんじゃないか? このピアノは何というか……沈うつというか、重圧というか……辛気くさい音楽ばっかり弾かれてたんじゃないのか?」
 サイモンはサティを弾きながら聞いた。
 サクヤは一生懸命笑いをこらえた。
「サイモン、それセバスチャンに言っちゃ駄目よ。バッハ・マニアなの。大きなサクヤはゴールドベルグばかり弾かれされて、げんなりしてたんですって」
「セバスチャン?」
「うちのホームセキュリティ・ロボット。きっとプログラム組んだ人がバッハ・マニアだったのね。セバスチャンの下にざっと250体くらいターミナルロボットがいるんだけど……セバスチャンが名前をつけたから名前がフランツとかグスタフとか……」
 サイモンは笑ってしまった。
 サクヤは珈琲のトレイを持って来たロボットに聞いた。
「ゲオルグ、セバスチャンはどこ?」
「ハンガーでカンザン、ジットクと船のデータを検証してます。私がご用を承りますよ?」
 そう言いながらティーテーブルに、珈琲ポット、マグカップ2つとダックワーズを盛った皿を置いた。

「お客様、お茶請けは甘い物でよろしいですか? クラッカーとルパ乳のチーズもご用意できますが」
「ありがとう。甘い物は好きだけど、ルパのチーズもちょっと味見してみたいな」
「では、持ってきましょう。ついでにセバスチャンをこちらに寄こします」
「ありがとう」

「随分人間くさい端末ロボットだよね」
 サイモンが感心した。
「エクルーが言うには、ジンの陰謀なんですって」
「へえ」
 会話しながら、サイモンは休み無くピアノを弾いている。時々軽くハミングする。
「毎日サイモンに弾いてもらったら、このピアノもネアカになる気がするわ」とサクヤが笑った。
「それはいいことかな?」
「きっといいことよ」
「じゃ、できるだけ弾きにこよう。サクヤはどの曲を覚えたい?」
「3番目に弾いた曲。ラララララ、タララ、ラン……」
「ジムノベルティか。いい選択だ。じゃ、ここに座って」
 サイモンは椅子の左の方に寄って、サクヤのためのスペースを空けた。
「まずは右手だけ」


 2人は熱中して練習していたので、エクルーが帰ってきたのに気がつかなかった。
「サイモン、いらっしゃい。サクヤ、何してんの?」
「お帰りなさい! サイモンにサティを習ってたの」
「サクヤは筋がいいよ」
「ルカはまだ野営地?」
「うん。今日はスオミとメドゥーラも泊まるんだって。何だか絶滅しそうだった花の群落を見つけたんだってさ。えらく興奮してた」
「何だろう?」
「写真とか持ってないの?」
「ない。気になるなら明日見においでよ。実を言うと、来てくれると助かる。アカネが暗いから」
「あら。じゃあ、行くわ。その花が見たいし」

 おしゃべりしながら、サクヤとサイモンは繰り返しおさらいをしている。サクヤが右手で、サイモンが左手。次は交替。
 2人が身体を寄せ合って弾いているのを、エクルーは珈琲をすすりながら眺めていた。
「今日、急いで帰らなくていいんだろ? 晩飯食ってってよ。簡単に作るから」
「あら、私の番よ?」
「いいよ。習える内に習っときな。後で両手で弾いてるとこ聴かせてくれ」

 夕食の後、エクルーがベースを出してきて、ボンボンボンと低音で弾き始めた。サイモンのピアノと合わせてジャズ・セッションを始めた。ほとんど即興だが、凄く息が合っている。感心してサクヤはこっそり録音しておいた。

 一生懸命拍手しながら、サクヤは熱っぽく言った。
「凄いわ。私も何か他の楽器ができればいいのに。一緒に参加したい」
「ドラムとか?」
「とりあえずヴォーカルやればいいじゃん。WOWとかDOとか適当に。ほら。まずベースの音に合わせてドウドウって声を出してごらん」
 1時間後には、サクヤはすっかり夢中でシャウトしていた。
「すげえ。たいしたものだ。サクヤ、薬学専攻って、道を間違えたな」
 サイモンが感心した。
「いいじゃない。歌ってピアノも弾ける民族薬物学者」
「クールだね」

 サイモンが帰った後、サクヤは繰り返し、サティをおさらいしていた。
「あれ、わからなくなった。エクルー、楽譜ある?」
「無いけど、弾けるよ。左手?」
「左手お願い」
 合わせて弾きながら、エクルーがぽそっと言った。
「サイモンと2人で楽しそうだったね」
 サクヤが笑い出した。
「もしかして心配してるの? 私がサイモンを好きになるかもって?」
「あるいはサイモンが君を」
「17も違うのよ? ほとんど親子だわ。パパの方がサイモンより若いんだもの」
「リィンとサユリの例もある」
「リィンはゴット・ファーザーみたいなものでしょ? 別にカップルじゃないじゃない」
「ジンとイリスだって20違う」
「……エクルー?」
 サクヤが脅すような低い声を出した。
「本気で思ってる? 私がエクルー以外の人を好きになるって?」
「……思わないけど、ちょっと面白くなかっただけだ。笑っていいよ」
 サクヤは本当に笑ってしまった。
「ごめんなさい。でも何だか気分いいわ」
「ちぇっ。ほら、両手で弾いてみろよ」