Sweet Spring Trap
F.D.2548
ジンのドームの外からリィンが叫んだ。
「イリス!」
返事が無い。
「イリス!」
もう一度呼んでみる。
イライラしていると、アヤメが顔を出した。よりによって。
「どうしたの? 母さんに用事? 今、お風呂よ。中で待ったら?」
リンは黙って、片手で布の塊を差し出した。
アヤメは受け取ってビックリした。
「サユリ! いつの間に外に出たの? お昼寝してたでしょう!」
1歳児はもがいて姉の手を押しのけると、リィンの方に手を延ばした。
「リーン! ホタル! ルパ!」
「サユリったら。まだ私の名前も言えないくせに」
「リィン!」
リィンはため息をついた。
「君は知らないかもしれないが、これで5回目だ。ルパに乗って、1人で俺の泉に来てホタルと遊んでる。こないだなんか、泉で泳いでたんだぞ! 今日こそイリスと話をつける。この子を出さないようにしてもらいたい。何かあってからでは遅いんだぞ!」
アヤメはリィンがいきまいている様子をじっと見つめた。
「解決策があるわ」
「何?」
「あなたが毎日うちにお茶を飲みに来ればいいのよ。昼ご飯でもいいわ。おうちであなたに会えるってわかったら、この子もわざわざ抜け出さないでしょう?」
リィンは口をあんぐり開けた。
この6年、このドームの周囲に近寄った事さえない。ここに通じる街道さえ避けていたのだ。それを、ここでお茶? 昼飯? 考えられない。
「とにかく入って。父さんに相談して。あなたがこのまま帰ったら、サユリは3分とうちにじっとしてないわ。さあ、どうぞ」
アヤメに誘われて、6年ぶりにドームに入った。子供の頃は、いつもここで双子と3つ子と一緒に遊んで、イリスにおやつを貰ってたのに。
家具の配置が覚えているのと違う。
サンルームに植物が増えて、緑がベビーベッドを囲んでいる。凄まじい泣き声がして、ジンの声が近づいて来た。
「お前、また脱走したのか。もう万策尽きたぞ」
ジンの顔や胸に手を突っ張って、サユリがぎゃあぎゃあ泣いている。
「ルパ! リーン! リーン!」
「参ったね。まったく……ちょっと頼む」
ジンは枕か何かのように無造作に赤ン坊をほおって寄越したので、リィンは思わず受け取ってしまった。
「リーン」
ぴたっと泣き止んで、じいっとリィンの顔を見ている。
「な? どうしようもないんだよ」
「そんな、のんきな。怪我でもしたらどうします? 泉で溺れでもしたら……。ルパがとんでもない方向に暴走したら、どうする気です! この子が抜け出さないようにきちんと対策を取ってもらいたい。僕は責任を取れませんよ!」
そう話しているリィンの肩に、サユリがよじ登って顔面におむつをすりつけ、顔から半分ぶら下がって、きゃきゃきゃっと笑っている。
「対策と君は言うがねえ」
ジンはサユリを抱き上げて、ベビーベッドの方に連れて行った。
「な。あれを見せてやれよ。あのオジチャンにも」
そういいながら、サユリをベビーサークルの中に寝かせた。高さが5mあって、ほとんど檻のようだ。ジンはサークルを閉じると、リィンやアヤメの方に戻って来た。
「見てろよ?」
サユリは3人のほうに手を延ばして、
「リーン! ホタル! ホタル! リーン!」と叫んだ。
すると1mを越すホタルが3匹飛んで来て、サークルの中と外を出たり入ったりし始めた。
「リーン!」
サユリがもう一度訴えると、サユリの姿がサークルの中からパッと消えて、リンの肩に現れた。そして、リンの髪を引っ張ってうきゃきゃっと笑っている。
ジンは肩をすくめて、腕を振った。
「これがカラクリだ。どうやっても閉じ込めておくことなぞできんよ。ホタルどもが味方してるんだから」
「それならホタルを説得したらどうです? ヤツらだって、この子が怪我したら困るでしょう?」
リィンは大きな声を出した。
「ホタルを説得……ね。君、やってみてくれ」
リィンは赤くなった。何て馬鹿なことを言い出したんだ、俺は。
「結局、サユリを説得するしかないよ。ホタルはこの子の機嫌をとってるだけなんだから」
「そんな無責任な……」
「ドームを完全に閉め切っても、ホタルは通り抜けて入って来て、サユリをさらって行く。俺達も途方に暮れてるんだ」
ジンは珈琲ポットを持ってきて、マグカップ3つに注ぎ分けた。
「どうぞ。とりあえず座ってくれ」
サユリを肩にのせたままリィンがテーブルにつくと、アヤメが隣に座って、フルーツゼリーをスプーンですくってサユリに食べさせ始めた。向かいに座ったジンが、珈琲を飲みながらニヤニヤした。
「君は知らんだろうが、サユリは難しい子でね。今、刻一刻と記録を更新しているところだ」
「何の記録です?」
「泣かないタイム。目の前で何か起こるわけじゃない。ホタルが中継して、色々みてしまうんだろうなぁ。過去も未来も。どういうわけか君といると、情緒が安定するらしい。さすが泉守りだ。なあ、アヤメ?」
「本当にそう。家族皆寝不足よ。サユリ、もういい? 後はお母さんにミルク貰うのよ? はい、お顔、綺麗、綺麗」
アヤメが小さなタオルで顔を拭いてやった。
「こんなにおとなしいのに。なあ? 泉では泣いたことありませんよ。いつの間にか後ろで静かに遊んでるんです」
リィンはサユリのぷりぷりした頬をつっついた。ゼリーのオレンジの香りがする。
「でもかわいそうよ。このくらいの赤ちゃんなら、半径10mくらいの小さな世界でぬくぬくとまどろんでいていいはずなのに、この子は無くなったペトリの竜やら、この先降ってくる星のことで泣いているのよ? 他の誰もわかってやれないのに」
リィンはサユリに指を握らせながら、顔をじっと覗きこんだ。
「おい。ちび助。お前、本当に一人でそんな怖いもの見てるのか? やめとけよ。とりあえず怖い夢はお預けにして、自分と家族を大事にしろ。パパとかママとか呼んでやれよ」
サユリは両手でリィンの人指し指をきゅっと握ってにぱっと笑った。
それから順番に指を指しながら、「アヤメ! パパ! ……ママ!」と叫んだ。
「おう、やっと覚えたか」
バスローブ姿のイリスが居間に入って来た。
「リィン。いらっしゃい。またうちのチビを連れて来てくれたのか?」
バスローブの前が緩いので、リィンはどこを見ていいかわからなかった。イリスはもともと少女のようなほっそりした身体つきだが、妊娠ー授乳期限定の豊かな胸がローブの前からこぼれ落ちそうにのぞいている。
「とりあえず、チビはご飯だな。ほら、おいで。ジン、離乳食を解凍してくれ」
「おう。豆と……芋かな?」
イリスがサユリを抱き上げて、ソファに行ったのでリィンはほっとした。 ところが、そこで胸をはだけて、赤ン坊に乳を含ませ始めたので、腰を抜かしてしまった。
「母さん、リィンが困っているわ」
「ああ、そうか。うちにもリィンがいるし、いつもここで一緒におやつを食べてたから、何だかうちの子のような気がしててなあ。すまん」
胸がリィンから見えないように身体の向きを変えた。
「今でもリオやイズミはしょっちゅう家に寄ってくれるのに、リィンがこの居間に入ったのは随分久しぶりだ。これからは、また気軽に顔を出してくれ」
リィンは観念してため息をついた。
「どうやらそうなりそうです。そのチビ助を届けに」
「良かった。週末にはアカネも帰ってくるわ。その時は晩御飯食べてって」
「わかった」
そう答えながら、すぐ横にいるアヤメを盗み見た。すっかりリラックスして俺の隣に座っている。 もう俺の事を怒ってないんだろうか。
視線に気付いて、アヤメがにこっと笑った。
「何だか昔に戻ったみたい。サユリの脱走癖のおかげね」
「ああ」
「おし、できた」
ジンがカップを一つずつリィンとアヤメに渡した。
「豆とじゃが芋だ。ストックが切れてたから、出来立てだぞ」
ジンはイリスからサユリを受け取って、ぽいっとリィンに渡した。
「頼む。俺だと食わないんだ。イリス、君はリィンを困らせない内に着替えてこい。やっとうちに来てくれたのに」
「そうしよう。サユリ、しっかり食わせてもらえよ?」
イリスが屈んで赤ン坊の頬にキスしたので、リィンがまた固まった。
「イリス、言ったそばから……」とジンがたしなめた。
イリスはにやっとした。
「かわいい娘のために優秀な泉守りを捕まえようと身体を張ってるんじゃないか」
「そんなサービスしてもらわなくても、ちゃんと来ます。約束したんだから」
「そうか? ありがとう」
そう言って、イリスはリィンのおでこにキスすると居間を出て行った。
リィンはサユリに潰した豆を食べさせながら、ため息ををついた。
「チビ、お前のお母さんは怖いなあ。うちの父さんがいつもイリスが怖い、ジンを尊敬するって言ってた意味がやっとわかった。……豆好きか? 芋も食べてみるか?」
アヤメのコップから芋をすくって、サユリの口に運んだ。
「よく食うなあ。足りないか?いっぺんに食うと戻すからな。我慢しとけ。ほら、弁当つけてるぞ?」
サユリのほっぺたについた豆をぺろっと舐めとってから、アヤメとジンの視線に気が付いた。
「あ……すみません。つい姪っ子や甥っ子の世話してたのと同じつもりで……」
「いや、たいしたもんだ。いつもはこの1/3も食わないんだぜ? ナニーに雇いたいくらいだ」
「雇われなくても、このチビが押しかけてくるでしょう? こういうものとルパ乳で良ければ、洞でもやっときます」
リィンは手際よくサユリにジュースを飲ませていた。
「有難い。夜泣きはするわ、食わないわ、でお手上げだったんだ」
「ジン、あなたが料理をするとは思いませんでした」
「そうか? この頃、ちゃんと食える料理のレパートリーが増えてきたよなあ?」
アヤメがくすくす笑った。
「私、音大終って戻って来てから、キッチン立入禁止なのよ?」
「へえ?」
「私たちがお嫁に行った後、父さんが困るといけないからですって」
「へえ」
「週末ディナーのシェフは俺だ。楽しみにしててくれ」
「ええ、もちろん」
サユリがすうすう眠ってしまったので、リィンは胸に抱き上げてソファに移動した。
アヤメが煎れ直した珈琲のカップを2つ持って、リンの側に置いた。
「寝てると、ホントに天使なのにね」
リンの肩越しに、サユリの頬をそっとつついた。
「何だか自信を無くしちゃうわ。一番面倒を見てたのは私なのに」
アヤメはごく自然にリンの隣に座って、赤ン坊を覗き込んで微笑んでいる。今なら言えるかもしれない。
「アヤメ……ずっと謝りたいと思ってたんだ。酷いことを言った。許してくれ」
一瞬、リンの顔をまっすぐ見つめて、微笑みながら目を伏せた。
「あなたのせいじゃないわ」
「でも……」
「図星だからショックだったのよ。あなたは悪くない。それよりも、あなたを傷付けたことが気になっていたの。それに、子供の頃からずっと一緒だったのに、あなたに会えない方が寂しくて堪えたわ。仲直りしてくれる?」
リィンは返事につまった。これはどういう意味だろう。イエスかノーか?
「また前みたいに、何でも相談できる、一番信頼できる兄さんになって欲しいわ」
ノーなんだな。リィンはため息ををついた。
「わかった。嬉しいよ。これでこのドームを避けてバザールに行かなくて済む」
アヤメは一瞬寂しそうな表情を見せて、すぐに微笑んだ。
……ノーなのか?
「本当よ。この六年、色々悩んだ時、あなたがいてくれたら、といつも思ったもの」
リィンはまたため息ををついた。
「外見はともかく、中身は似てない母娘だと思ってた。でも君はやっぱりイリスの娘だな。今まで気がつかなかった。ちょっと怖いよ」
アヤメはちょっと傷付いた顔をした。
「どういうこと?」
「……何でもない。つまり、この家の女性は皆魅力的だって言いたいのさ。一度捕まったら、逃げられない」
アヤメはまだ困惑した顔をしていた。
リィンはぐっすり眠っているサユリを、アヤメに渡すと、立ち上がった。
「泉に戻る。また……すぐ来ることになるだろうな。それに、もうサユリが泉に来るのもとめないよ。この子には泉が必要なんだろう、きっと。 珈琲ごちそうさま」
そう言うと、サユリの頬にキスしてドームを去った。
アヤメは眠っているサユリを優しく揺すりながら、小さな声で歌っていた。しばらくしてそれがリィンに習った春祭りの歌だと気が付いた。”言葉いの歌“母さんは習わなくても歌えるのに。私はリィンに翻訳してもらわないと泉の歌が歌えない。
サユリは歌えるのかしら。
私はホタルに飛ばしてもらったことなぞない。
母さんはこの星のイドラが育って来て数が揃ったのでポテンシャルが上がったせいだと言った。 そのエネルギーを受けながら生まれて来たので、サユリの力が強いのだと。メドゥーラは、サユリは優秀な泉守りになれる、と太鼓判を押した。サユリならきっとリィンを助けて支えることができる。
胸がズキンと痛んだ。やめよう。
もう迷ってリィンを困らせたくない。たった今、怖い女だと言われたばかりじゃない。
もうリィンの優しさに甘えては駄目。
リィンの気持ちを利用しては駄目。
でもサイモンのプロボーズに答える勇気が無い。
まるで6年前の春祭りの時と、同じワナにはまっている。リィンに申し込まれて、はっきり自分の気持ちを決められなかった。迷うってどういうこと? まるでリィンが今でも私に気持ちがある、可能性があるって思ってるみたいじゃない。
アカネはきっぱりルカのプロポーズを断った。ルカは懲りずにアプローチしているけど。
まったくなんて人達だろう。双子で双子の女性に申し込むなんて。悪趣味すぎる。
そこでハタと気がついた。
「父さん。週末のディナー、あの双子のドクターも来るの?」
「ああ、呼んでるよ。今、2人ともアカネと青谷でフィールドワークしてるからな」
「私……リィンも招待しちゃったんだけど」
「いいんじゃないか? リィンとサイモンは話が合うと思うぞ?」
ジンはボールの中の何だかわからないものを、手でぬちゃぬちゃ混ぜている。
「エクルーとサクヤも呼ぼうか、と言ったんだがイリスに止められた。まあ、あの2人も今、微妙な所だがなぁ……」
「父さん」
イリスはため息をついた。
フラッフルをメダル型に丸めながら、ジンがにぱっと笑った。
「俺はいっぺんに片付いていいんじゃないかと思うんだがね」
アヤメは感服した。さすが母さんの夫をやってるだけのことがあるわ。
「本当にそう思う?」
「え?」
「あの双子対リィン1人より、2対3の方がマシだと思う?」
「まあ、皆一緒の方が楽しいだろ? それにエクルーが来るとうまいもんが食える」
アヤメは呆れた。
「父さん。結局、お料理したくないだけでしょう?」
「何を言う。自慢の料理を披露したくて待ちきれないさ。ただ品数があまりなくてな。とにかく、手持ちのカードは一度並べて比べた方がいいぞ」
アヤメは口をあんぐり開けた。
父さんがあの双子の行動に気づいていると思わなかった。メイリンに頼まれて、イドラでのスーパーバイザーになっているが、実質の世話はアヤメとアカネに任せて、フィールドワークにも一切同行していなかったのに。
「断るつもりなら、ヤツがいた方が断りやすいんじゃないのか?」
ジンはフラッフルに粉をはたいた。そこへ畑仕事を終えたイリスが、今日の収穫を抱えて台所に入って来た。
「何の話だ?」
「週末ディナーの参加者リストだ」
「ふむ。リィンを呼ぶならエクルーとサクヤも呼ぼう」
ジンがにぱっと笑った。
「そう思うだろう? そうと決まれば今から言ってこよう。さっきラボに来てたから……。待てよ。アルとスオミも呼んだ方がいいのか?」
「好きにしろ」
イリスは野菜を洗い始めた。ジンは鼻歌交じりにラボへ続くコリドーへ出て行った。
アヤメはちょっとめまいがした。
「どうなっちゃうのかしら?」
「なるようにしかならんさ。グズグズ悩んでも決断は一瞬だ。6年前の答えを訂正してもいいんだぞ?」
「母さん?」
「アヤメが、アヤメの好きなように決めたらいい。他人の思惑なぞ配慮しなくていいんだぞ? 全部のコマを並べて、どういう手を打つか考えればいいんだ」
アヤメは笑ってしまった。
「さっき、父さんが同じことを言ったの。さすが夫婦ね」
イリスがにいっと笑った。
「うらやましいだろ?」
「ええ、うらやましい。父さんと母さんみたいな夫婦になりたいわ。いちいち言葉に出さなくても通じ合える。一緒にいて安心できる関係……」
アヤメは、そっとサユリの頬をなでた。片方の手はしっかりサユリに捕まえられている。
「そして、サユリみたいな赤ちゃんが欲しい」
「ここまで手がかかるのは困るぞ?」
「いいナニーが見つかれば平気よ」
イリスはボール一杯に葉野菜を千切って、胡瓜のスライスを散らした。
「まあ、週末までその問題は考えないことだ。ひとりで赤ン坊は生めないんだからな」
役者はそろった。運命の夜がやってくる。