かぐや姫




F.D.2548


 その日は特別明るい夜だった。洞の上からペトリの明りがまっすぐ刺し込んで、泉の底深くまで照らしている。まるで泉が開いた時のように。
 最後に泉のゲートが開いて、青く輝いたのは8年前だ。107コすべてが輝いて、水神の声が聞こえた。
 あれ以来、あんな奇跡はおこらない。もう水神もいない。ホタルは水神の後継者と言えるが、まだ幼なくて力が弱い。こんな状況で、泉守りなどまだ必要なのだろうか。

 リィンがいつもの考えに沈んでいると、カロンカロンと音がしてルパのうれしそうな声が聞こえた。来訪者で、しかもうちの血縁のルパに乗っているらしい。
(まさか、アヤメ?)
 リィンの胸が高鳴った。

 あの春祭りの前だって、アヤメは1人で俺が修行している泉に来たことなんてなかった。まして春祭りで、あんなひどい言葉を投げつけてしまった後で、アヤメがもう二度と俺と2人きりで話したいと思うわけない。
 小さいルパの仔たちが、メメメ、メメメメと来訪者にじゃれついている。
「わかった、わかった。手がふさがっているんだ。頭突きするんじゃない」
 アヤメの声だ。でもリィンは動けなかった。信じられない。
 アヤメが洞に入って来た。フードを背中にずらすと、青みがかった銀色の髪がこぼれ落ちて腰まで広がった。大きな瞳が泉の光を受けて輝いている。
 俺の泉の化身。水神の使い。30匹ばかりの大小さまざまなホタルがまとわりついている。その青白い光を受けて、昼間見ても白い肌が透き通ってみえる。

「こんばんわ。急に来てすまないな」
「そんなこと、いいんだ。来てくれると思わなかった」
 来訪者はすべるように泉のそばにやって来ると、抱えていた荷物を見せた。アヤメとそっくりの青緑の瞳と髪の赤ン坊が、じいっとリィンの顔を見上げた。
「まさか、君の子か? いつの間にこんな……」
 リィンはショックを受けた。
「そうか? グレンに知らせておいたつもりだったんだが。名前はサユリ、女の子だ。1歳になるから、泉の洗礼を受けたい」
 そう言うと、母親は頭の上まで赤ン坊を持ち上げると、勢いよく泉に放り込んだ。
「何をする気だ!」
 リィンは真っ青になって、泉に飛び込んだ。
 むつきに石でも入れてあったらしく、赤ン坊はあっという間に沈んでゆく。リィンは追いつけない。水が冷たくて、息がつまる。
 こんなに突然、こんなバカなことで、アヤメの赤ン坊を失うのか?
 夢中で底に向かって泳いでいると、青白い無数の光がリィンを追い越していった。ホタルだ。
 ホタルが喜んでいる。

 泉の底で、赤ン坊が笑っている。ホタルがくるくる回って、赤ン坊とはしゃいでいる。青い光に満たされていて、石の光か月の光かわからない。
 赤ン坊がこちらに両手を振っている。抱き上げると、声を出してきゃきゃきゃっと笑った。手を差し出すと、指をきゅっと握ってまた笑う。リィンは涙がこぼれそうになった。
 ホタルが2人の周りをぐるぐる泳いで、祝福するように、リリリリと歌っている。ホタルの歌と泉の光に守られながら、リィンは赤ン坊を抱いて水面に上った。

 水面で、母親が布を用意して待っていた。
 暖かい布に包まれて、赤ン坊ははしゃぎ声を上げた。リィンが服のすそをしぼっていると、頭からばふっと布をかぶらされた。
「ご苦労様。ありがとう。すぐ着替えた方がいいぞ」
 リィンはその布を、洞の床に叩きつけた。
「何、考えてるんだ。こんな赤ン坊を。ホタルが守ってくれたからいいものの……」
「だから、洗礼だ。メドゥーラから聞いてないのか? うちの仔は上の5人も全員、泉に放りこんだ。ヨソ者だから、イドリアンのように生まれつき泉と話せるわけじゃない。だがテレパスとして、この星で生きていく以上、必要なことだからな。結局、1番泉に近いのはアヤメだった。3つ子なぞ、月が3つそろってもわからない。丸っきり鈍感だ。さて……この娘はどうなるのかね」
 そう言って、リィンの布をひっぱって脱がせようとする。
「待て。何をするんだ」
「だから、風邪をひく。泉守りが泉で泳いで、風邪をひいたんじゃサマにならんだろう」
「待て」
 リィンは悲鳴を上げた。
「アヤメ。君は今日、変だ。いったいどうしたんだ。夜に急に来たかと思うと……」
「アヤメ? 私をアヤメと間違えているのか。それはあの子に言わない方がいいぞ。ますますこじれる」
 リィンは目をしばたたいた。
「脱がされるのがイヤなら、早く着替えてこい。いろりを借りるぞ。ルパの乳を温めてやる」
 私物を置いているつい立てのうらで、身体をふきながら、まだリィンは混乱していた。

 アヤメじゃない?
 声も姿もアヤメなのに?
 あんなにルパもホタルもなついてるのに?
 まさか、アカネ? でもアカネとアヤメは声が全然ちがうのだ。アヤメは声学の訓練を受けているので、声が深い。いつものどを守ったしゃべり方をする。アカネの声の方が細くて甘い。

 こわごわつい立てから出てくると、女は温めたミルクを赤ン坊に飲ませていた。赤ン坊はリィンを見つけると、両手をのばして、うきゅきゅっと笑った。
「抱いて飲ませてやってくれ。今、あんたの分も器に入れてやる。泉の中で目まいはしなかったか?」
「いや……そう言えば大丈夫だった。かなりの底の方まで潜ったのに」
「この子もこれだけ上機嫌なところを見ると、泉と相性がいいようだな。アヤメでさえ泣きわめいたのに」
「この子は……アヤメの……」
「23歳ちがいの妹だ。何だ。アヤメの娘だとでも思ったか。いくら何でも、相手もいないのに、子供は生めない。双子は2人とも後手だからな。私など18であの2人を生んだぞ」
 リィンはやっと安心して、ため息をついた。しかし改めてまじまじと見ても、イリスはアヤメの母親のように見えない。おしとやかに落ち着いて話すアヤメより、ヤマネコのようなイリスの方が若く見えるくらいだ。
「さすがにもう打ち止めだろうと思ってな。孫より年下の子供を生む前にと仕込んだが……どうやら慌てることもなかったようだな」
 イリスはミルクのおわんを差し出した。
「実は、アヤメとアカネについては俺にも責任がある。まだ双子が腹にいる時、俺が呪いをかけたようなものだ。エクルーの母親を励ましたくて……。この双子は、あんたの子に夢中になる。でもその子は、母親に夢中でうちの子に目をかけないだろうと言ってしまった。また、2人ともジンに似て、煮え切らないクセに、あきらめも悪くてな」
 赤ン坊は、はいはいしてホタルを追いかけていた。ホタルは順番にわざと捕まってやって、笑わせている。

「というわけで、リィンさえ上の2人をあきらめる気があるならサユリをヨメにもらってくれ」
 リィンはミルクの椀を取り落とした。
 イリスは布をとって、リィンのひざにかぶせた。
「バカだな。せっかく着替えたのに」
「ヨメ?」
「うちの子らは暗示にかかりやすいから簡単だ。なあ、サユリ。リィンのこと好きだろう?」
 赤ン坊はきゃっきゃっと笑って、返事をした。
「やめてくれ。いくつちがうと思うんだ。俺の弟も妹もみんなもう7つ8つの子供がいるんだぞ」
「でも、あんたには子供もヨメもいない。このまま1人で年を取るつもりか?」
「アヤメが手に入らないなら、誰も要らん」
「ほう。そこまで思ってもらってうれしいよ」
 イリスの笑顔がアヤメとそっくりで、リィンはますます混乱した。
「私もジンも年だ。この娘が一人でやっていけるようになるまで、丈夫で生きていけるかわからん。別にヨメにもらってくれと言わん。俺たちに何かあったら、この娘の面倒を見てくれんか。アヤメだと思って、大事にしてくれんか」
 いつの間にか、赤ン坊がリィンのひざによりこんで、リィンのほおをペタペタ触っていた。耳をやわらかくひっぱって、それからふかふかのしっぽを自分の首に巻きつけて、きゃきゃきゃっと笑った。
「リーン」と赤ン坊がしゃべった。
「こいつ、ママより先に誰の名前を呼ぶ気だ?」
「リーン」
「まったく……どうやらあんたは見込まれたらしいな。よろしく頼む。また改めてあいさつに来るよ。ジンも一緒に」
 イリスは赤ン坊を抱き上げて、立ち上った。
「ちなみにイドリアンと私の子供なら、ちゃんと子供ができると思う。泉が力を貸してくれるからな」
 リィンは頭をガンをなぐられた気がした。それでも気をとりなおして、泉守りの威厳を保った。
「ヨメだとかいう話は抜きで、何かあったらその子は引き受ける。洗礼の面倒を見た泉守りの責任だ」
「ありがとう。これで安心だ」
 そう言って、イリスはリィンのほおに手をそえるとやさしくキスをした。

 リィンはいつ2人が洞を出て行って、ルパの鈴がやんだか気がつかるかった。
 まるで何もかも夢のようだ。アヤメのほおにさえキスしたことないのに。アヤメそっくりのアヤメの母親とキスしてしまった。そして、今度は親子ほども年の離れたアヤメの妹をヨメにする? 悪い冗談のようだ。

 月の位置は移動していたが、洞の中は明るかった。
 今夜は石の機嫌がいい。それとも俺の機嫌がいいのか?

 夢でもいいや。いい夢だ。
 今夜は久しぶりに良く眠れそうだ。