サカナの回線
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F.D. 2542
エクルーがアヤメと2人だけで話したのは1度だけ、いや2度だけだ。たいした時間話したわけでもないのに、気を使ってくたくたになった。
イドラに送るメールはたいていジン宛でコード化したものだし、安全を気にしなくてよくなってからは、ジンの家族が会話に入ってきそうな時は必ずサクヤに同席してもらって気をつけていたのだ。だから、職場に入ったジンの娘、アヤメからの通信は不意討ちもいいとこだった。
ウイグル・ステーションのラボでアルと話していると、司書のチャンがドアから顔を出した。
「エクルー、外線だ。星外から。外線3番。書架室のモニターに回したから」
「ありがとう」
「イドラからかな?」
「多分。ちょっと行ってくる」
モニターに現れたのがアヤメだったので、エクルーは身構えてしまった。
「こんにちは。お仕事中にごめんなさい。すぐすむから、ちょっと相談していいかしら」
これだけを一息に言うと、うつむいて目を合わせようとしない。
「・・・こんにちは。元気?すぐ次のRUNだから、5分くらいならいいよ。何?」
「相談というより・・・あなたの許可が欲しかったの。キジローのお葬式でイドリアンが歌った歌。あれを楽譜に起してるの。研究論文につけて音大に提出してもいいかしら」
アヤメは目をふせたまま、必死でしゃべっている。顔が赤くなったり、青くなったりする。イリスゆずりの薄い青緑の入った銀髪が日に透けて、繊細な顔を縁取っている。深い緑色の瞳の周りで、密生した繊毛のようなまつ毛がぴくぴく震えている。
こんな風に用心深く距離を取ったりしないで、子供のころのように一緒に遊べたらいいのに。ジンのところにも、グレンのところにも、同じ年頃の子供がたくさんいて、イドラに来たときは転げまわって遊んだ。なかでも、アヤメが一番親しかった。俺がキジローやサクヤから離れて、一人でイドラで過ごしている時、何となく心許ない気分でいると、いつもアヤメがさりげなく側に来てくれた。このやさしくてきれいな幼馴染が大好きだったのに。どうして今は、昔みたいにいかないんだろう。変わったのは俺か?アヤメか?
エクルーは何だかイライラして、面倒くさくなってきた。いつもの”しんぼう強い兄”の態度が取れなくなった。
「どうして俺に聞くの?あの歌を指揮したのはメドゥーラだし、一番歌えるのはイリスだ。2人がいいと言ったら、俺もいいよ」
「でもキジローのお葬式だもの」
「アヤメ、俺の気持ちを尊重してくれるのはうれしいけど・・・」
「もちろん楽譜なんかではあの時の迫力と魅力の1/5も表わせないのはわかっているの。うずまいていた祈りの思念も。でも音楽としてだけ見ても、美しいと思うの。興味深い旋律だし・・・」
「興味深い・・・ね」エクルーが目を細めてつぶやいた。
「ごめんなさい!私・・・」アヤメが目を見開いて、口を手で覆った。
「キジローの思い出が君の名前で出版されても、俺は気を悪くしたりなんかしない。だから許可する。でも君が欲しいのは許可なんかじゃないだろう?誤魔化しちゃいけない。君が欲しいのは俺の激励の言葉なんだ。そうだろう?」
「私・・・」
「キジローの思い出を論文にしてくれてありがとう。とても興味深いよ。がんばってくれ」
「エクルー、ごめんなさい・・・私・・・そんなつもりじゃ・・・」
今にも泣き出しそうなアヤメは、素晴らしく美しかった。さらに残酷な言葉を投げつけてやりたくなったが、何とか思い留まった。
エクルーは時計を見るフリをすると
「RUNの時間だ。仕事中なんでごめんね。イリスとジンとアカネとシンリンケンによろしく。じゃね」と回線を切った。そしてコンソールに突っ伏した。
・・・忌々しい。今頃、アヤメは泣いているだろう。あの繊細なまつげを震わせて。そして泣かせたのは俺だ、ちくしょう。
あそこまで追いつめる必要はなかった。適当に当たり障りのない言葉で、励ましてやればよかったじゃないか。
ラボに戻ると、アルが計算中のモニターを見ながら、鼻歌混じりに言った。
「次のRUNが5分後だって?なのにどうして室長の俺が知らないんだろうな?」
「アル!人の私信を盗み聞きするのは犯罪だぞ!」
「お前がグチ言いやすいようにしてやってるのさ。言っとくけど、俺が心配してるのは魅力的なジンの娘じゃなくて、お前だよ。バカだな。どうせ今頃自己嫌悪に陥ってるんだろ?」
「ほっといてくれよ」
「いいじゃないか。どうせお茶の時間だ。タジクの休日だし他に誰も来てない。中庭でお茶にしようぜ」
「俺が悪かったんだよ。音楽の話ができるのがうれしくて、つい楽譜のファイルを添付してメイル交換なんかしちゃって・・・モニター越しに合奏した後、みんなの拍手を受けて、アヤメの目がキラキラしてるのを見た時、しまった、と思った。もっと気をつけるべきだったんだ」
「しまった?何がしまった?合奏しただけだろう?しかもモニター越しに。音楽の高揚感に酔って、お前にホレちゃったのはアヤメの責任だ。同い年のお前が責任取らなくていい。こんなことぐらいで、サクヤも焼きもちも焼かないと思うぜ?」
「でも・・・」
「モニター越しに合奏したくらいで、その女のコと結婚しなきゃならない法律はない。お前が必要以上に残酷にならなきゃいけなかったのは、お前もあのコに惹かれているからだ。そうだろう?」
「俺・・・」
「でも、サクヤほど大事に思うことはできない。思いを断ち切らなくちゃいけないのに、それもできない。それで嫌われるように仕向けた。そうなんだろ?こんなの浮気のうちにも入らない。なのに、お前はイラついてよりによって本人に八つ当たりした。大人気ない」
「俺は・・・」
「お前が反省すべきなのは、その点だけだよ。八つ当たりして、あの子をイジメた。あのコはそれでお前を嫌いになったりしない。ただ、自分を責めて泣くだけだ。フォローしてやれ。だが、あのコがお前にホレたのは、お前の責任じゃない。何せお前は身長6フィート強、18歳でドクターを取ろうとしているハンサム・ボーイ、立ちションしてたって女のコはなびくさ」
エクルーは口を開けかけて、閉じた。また口を開いて、それから髪の毛をぐしゃぐしゃとかいた。
「まったく・・・過保護な兄さんを持ってうれしいよ。俺のことを、俺よりよくわかってると信じてるんだからな」
「信じてるんじゃない。そうなんだ」
「まったく・・・ありがたいよ」
「5分以内なら、私用でも系外通信していいぞ。経費につけてやる、室長権限で」
「ありがとう」建物に入りながら、エクルーは右腕を上げた。