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夕方、エクルーがテントに戻ると、サクヤは自分のベッドでぐっすり眠っていた。そっとおでこを触ってみると熱はない。ただ、安心した顔ですやすや寝ている。
エクルーは椅子を持ってきてベッドの端にひじをつくと、サクヤの寝顔にとっくりと見入った。
不思議だ。
イドラにやって来て、サクヤに出会ってからもうすぐ1年になる。
たった1年。なのに、もうお互いに離れられない、かけがえのない存在になってしまっている。キジローが死んだ時も、こうしてじっと長い間サクヤの寝顔を見つめていた。
最初から、ボニーを追う旅だった。それがこうしてボニーの娘と一緒に暮らしてるなんて。
ボニーの夢を追って、サクヤと2人でイドラに来たのだ。ペトリを見つけ、ミヅチに出会い、キジローと一緒にボニーを探した。
ボニーと出会ったために、エクルーは生まれ変わることになり、そのためにサクヤは散ったのだ。
ボニーが迎えに来て、キジローとイドラに戻った。そしてサクヤに会った。
今はキジローもボニーもいない。サクヤと2人きり。もしサクヤがいなかったら、もし万が一サクヤを失うことになったら、自分は1人になる。
そう想像しただけで、足元がなくなって宇宙空間に1人で漂流しているような絶望的な孤独を感じて、身体が冷たくなった。
サクヤはふっと目を開けてエクルーを見つけると、にこっと笑った。
「何だか悲しそうな顔してる」そう言うと、腕をのばしてエクルーのほおに触れた。「どうしたの?お腹すいた?」
エクルーはちょっと笑った。どうして女の子はみんな、俺が元気がないと”お腹すいてる”って聞くんだろう。
「そうだな。君が起きるのを待ってる間にちょっと腹が減ったかも」
サクヤはいつもの寝起きの良さで、ぱっと身体を起した。
「私もお腹すいた!もうご飯作っちゃった?バザールの屋台に食べに行こう。揚げパン入れておかゆ食べたい!」
「いいね。行こうか」
「じゃ、これ着て行こう。ヤスミンが持ってきてくれたの。シャマーリがエクルーくらいの歳の時着てたウイグルの衣装。ねえ、着てみて」
あつらえたようにサイズがぴったりで、エクルーが黒髪なことも手伝って、まるっきりウイグル人に見える。
「すごい。それでバザールに行ったら、女の子の注目の的になるわよ。これも被ってみて」
おわんを伏せたような半球型の布の帽子で、やはりウイグルの意匠が入っている。
「うわあ、完璧。これでウイグル語を話せば、完全にここの人になれるわ」
「実は話せる」
「うそ。どうして?」
「ひまひまに習った」
「すごいじゃない。じゃ、ね、私もメイリンの子供の時の服を着るから、エクルー、ずっとウイグル語で話して?2人でウイグル人のふりしよ!」
翌日ラボに行くと、所長のメイリンがにやにやして待っていた。弱冠20歳で博士号を3つ持って、この研究所と付属する高等学校を経営している才媛だ。高級なお茶の生産以外さして産業のなかったこのステーションで、この研究所が人と資金の動く中心になりつつある。
「昨夜、うちに問い合わせが殺到したんだけど?」
「どういう?」
「タイム・スリップしちゃったって」
エクルーがけげんな顔をした。
「10年前の私とシャマーリがバザールを歩いてたっていうのよ」
「なるほど」
シャマーリはメイリンの夫だ。波打つ黒髪に深い青の双眸、腹に響く深い声を持つ、男でも惚れそうな美丈夫である。
「昔の服を上げたって説明したわ。でも、別人と思えない、しかも絶対に外地の人間なんかじゃない、流暢にウイグル語を話して、女の子が長身の青年にじゃれてる様子が、あんた達そのままだったって」
「メイリンとシャマーリってそんなに昔から知り合いだったの?」
「だって、シャマーリは私の叔父ですもの」
エクルーはあんぐり口を開けた。「ウソだろ?」
「私の母の弟なの。だから、ヤスミンは私にとっては祖母で、シャマーリにとってはお母さんなわけ。面倒だから、カラも私もおばあちゃま、と呼んでるけど」
「うーむ」
「もう7つの時には婚約してたわ。だから、この事あなた達に言いたくなかったのよね。何だか照れくさくて。完全に同じパターンでしょ?」
エクルーは「うーむ」とくり返すばかりだった。
「ウイグルの基準でいくとあなた方は標準的なカップルってわけ。絶対に嫁・姑問題の起きない組み合わせでしょ?ここで結婚式挙げれば?」