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 食後、2人はトランクを預けてステーションを探検した。たくさんの人。たくさんの店。たくさんのゲート、ドック。ターミナル間をつなぐスカイ・レール。何もかもが珍しい。
 スオミはスカイ・レールが気に入って2往復した。中央カウンターへ下りる長いエスカレーターも2往復した。キジローは、顔を輝かせてエスカレーターできょろきょろしているスオミを面白そうに眺めていた。
「そろそろフェリーのチェック・インの時間だ。さあて、どっちに戻ればいいんだったけな」
「こっちよ。第1ターミナルに戻らなくっちゃ。ジークフリート・スペースラインよね。スカイ・レールで3つ先」
「たいしたもんだ」
 スオミは自分の庭のようにステーションを走り回っている。到着したときには、あんなに萎縮していたくせに。戻る途中で、本のスタンドを見つけて立ち寄った。
「参考書を仕入れよう」
「何の?」
「変装の。古典教師と反抗期の娘は、旅行中どんな服装をするもんかね。適当に雑誌を選んでくれ」
 眉間にしわを寄せて、スオミが真剣にファッション雑誌を比較検討している間に、キジローは児童文学のコーナーに行って、船の中でスオミの暇つぶしになりそうな童話を2冊選んだ。
「決まったか?」
「決めた。これにするわ」
「じゃあ、この本も一緒に清算してくれ」
 雑誌と本を買うと、後はリーフ紙幣2枚といくらかの小銭しか残らなかった。
「よし、とっととチェック・インして、コーヒーでも飲もう。おまえはアイス・クリーム喰っていいぞ」
「アイス・クリーム?」
「何だ。喰ったことないのか?子供はみんなアイス・クリームを喰うもんだ」
「小さい頃食べたかも」ダディが一緒だった頃に。
「じゃあ、ゲートのコーヒー・スタンドで喰ってみよう。さて、ゲートはどっちだ?」キジローはスオミの顔をのぞき込んだ。
 スオミは自信たっぷりににっこり笑った。「こっち」

 アペンチュリン行きの連絡船が慣性飛行に入る頃には、スオミは疲れ切っていた。シートベルトをはずして幅の広いシートに丸くなると、すうすう寝てしまった。キジローは座席の下から毛布を出して、よくくるんでやった。自分は読書灯で、エクルーの船から借りてきたサリンジャーを眺めていた。どの話もよく覚えている。
 一言一句そらんじている本は、聖書かアルバムのようなものだ。読み直して安心するために持ち歩く。初めて会ったとき、あいつはこの本を読んでいた。昨日、本を借りようとテトラのボックスをのぞいて驚いた。ざっと30冊、”ナイン・ストーリーズ”があった。いろんな版、いろんな言語で。何を考えてこの本を読んでいたんだろう。聞いたことがなかった。聞いてみればよかった。
 多分、あのときすでに、自分の運命を知っていたのだろう。すさんだ顔をした俺を、イドラまでひっぱり出してサクヤに引合わせた。自分の死後、サクヤを支えていく人間として、俺を選んでくれたのだ。刻一刻とイドラから離れながら、キジローはごく単純素朴にサクヤとの再会を信じることができた。アカデミーの問題が片付いて、通信をコード暗号化する転送システムだの、逆探知防止のマスキングだの、足跡が残らずいつもクリーンなメイルボックスだの、見た事も聞いたこともない人物設定のIDだの、何もかも要らなくなったら、そしてそれまでこの子を無事に守れたら、サクヤと一緒に暮らせる。この子も一緒に3人で暮らせるかもしれない。そして、それはきっと遠いことではない。
 乗務員が飲み物の注文を受けてくれたので、バーボンを頼んだ。とはいうものの、チューブに入ったバーボンのロックというのは、いささか味気ない。周囲の乗客は灯りを落として寝ているか、静かな声で語り合っている。ひっそりとしたざわめきの中で、キジローは安らぎと呼べるくらい落ち着いた気持ちでいる自分に驚いた。
 隣りのシートで、スオミが何かつぶやいた。のぞき込むと、眠ったまま頬を濡らしている。昼間は明るく振舞っていても、ペトリを思い出してしまうのだろう。丸めた手にしっかり、キジローのウールのシャツのすそを握っているのを見て、心の奥の方のどこかが、柔らかく温かくなった気がした。
 読書灯を消すと、手すりを倒してスオミのシートとひとつづきにした。子供の体温と湿った寝息を感じながら、キジローもぐっすり眠った。