ペーパー・ムーン


p 1

F.D.2525

 連絡船がイドラを離れるにつれて、スオミの緊張が高まってくるのがわかった。ワルキューレ・ステーションのドッグに下りたとき、キジローがそっとスオミの肩に手をおいて「ほら、見えるか?」と窓の外を指差した。
「あの明るい赤味がかった星があるだろう。その右下の青白い星がヴァルハラだ。ペトリとイドラの太陽だな」
「あんなに小さいの」
「このステーションはヴァルハラ星系への玄関口といっても隣のミラ星系の公転軌道上にあるからな。今、たまたま遠い側にあるし」
「あんなに小さいのね」
 スオミがつぶやくように繰り返した。5歳で家族と引き離されて以来、あの辺境の太陽系の第七惑星がスオミの世界のすべてだった。8人の育ての親も、いつも泉越しに心配して食べ物や服を届けてくれたおばあさんも、友人も、愛した風景も、何もかもあそこに置いて来てしまった。
「さあ、ターミナルまで出て荷物を受け取ろう」
 キジローが静かにうながして、2人は歩き始めた。自然豊かな土地で何不自由ない暮らしをして来たスオミにとって、この巨大な人口空間はどんな風にうつっているのだろう。流れない空気、閉ざされた天蓋に偽装天候、装飾用の虚弱な植物群。やさしい手で紡がれ、織られ、草木で染めた実用的で暖かい衣服に守られて育ったのに、今は既製品の都会的な服装できゅうくつそうにカムフラージュしている。
「その服、よく似合ってるぞ。イオのフェリス・アルファのお嬢さん学生に見える。堂々としてろ」
「うん」スオミはイオが太陽系第五惑星の衛星で銀河連邦本部があることも、フェリス・アルファが銀河系随一の名門女子校であることも知らなかった。でもキジローが自分を励まそうとしていることはわかったので、青白い顔で微笑んだ。

 ターミナルに入って人ごみの間を歩くようになると、スオミの身体がますます強張った。平静を装って、この10年毎日こうして旅行しているような顔でキャリー・ケースを牽いてなめらかに自動歩道を歩いているが、緊張で指先が紫色になっている。キジローはそっとかがんで、低い声で言った。
「次に歩道が切れたら、左手の待合ロビーに入れ。ビュッフェで昼メシにしよう」
「わかった」スオミがほっとしたように答えた。
 ロビーの隅に荷物を積んで、自分達の基地にした。
「えらく暖房が効いているな。コートを脱いだ方がいいぞ」そう言いながら、自分も慣れない皮のコートとスポーツ・ジャケットを脱いで、荷物の上にかけた。ソファにどさっと座ると、うめくように言った。
「ふう。こういうまともな服は肩が凝る。あんたもくたびれただろう。イドラの織物は雲みたいに軽いからな」
「ナンブさん・・・」
 スオミが警戒したような声を出した。
「大丈夫。3時までは俺達はイドラから来た田舎者のままでいい。イドラの宙港管制員ともそういう世間話をして来た。おまえはエクルーの遠縁の娘で、葬式の後、しばらくサクヤの話し相手をして滞在していたが、学校が始まるのでミラ星系の衛星フローレンスに戻る。俺はサクヤに頼まれて、あんたをフローレンスまで送っていく、という筋書きだ。管制官のジョニーは”あ、じゃあ、3時の客船だな。豪勢じゃないか”と抜かした。というわけで、これが俺達のチケットだ」
 キジローが2枚のチケットを見せた。それぞれ、ちゃんと2人の名前が印字してある。
「でも俺達はその豪華客船には乗らない。チェックインした後、こっそり搭乗タラップから下りて・・・」
「ゲートに戻ってくる!」スオミの眼が輝いた。
「はずれのロビーで、9時発の辺境連絡船を待つ。アペンチュリン行きだ。そこにサクヤの古い友人がいるらしい。これからイドラと通信する時、彼女が窓口になってくれるから、ジンが作った魔法のシステムをしかけに行くわけだ。おしゃべりしても、アシがつかないように。でもアペンチュリンに行くのは俺達じゃない。俺達は・・・」
「3時の客船でミラに行ったはずだから・・・」
 スオミの飲み込みの早さにキジローは思わずにやりとした。
「そう。アペンチュリンに行くのも、今後、その女医さんにメイルを出すのも俺達じゃない。そいつらはアカデミア・プラトン出身のインテリ親子だ。俺は薄給の古典文学教師、お前は別れた女房と暮らしてて、久しぶりに父親に会ってむすっとしている娘。ほれ、反抗期のティーン・エイジャーのIDだ」
 パスポートは”フィオナ・マックギィルヴィ”名義になっていた。
「あなたは?」
「”ニッタ・ジロウ”だと。ウソ臭いなあ」
 キジローは2冊のパスポートを胸の内ポケットにしまった。
「というわけで、3時まではスオミのままでいいぞ。手を出して」
 キジローはスオミの手の上にひとつかみのお金を乗せた。
「この通貨はアペンチュリンでは使えない。高額紙幣は後で換金するが、細かいのは使ってしまおう。イドラの宙港で買い物したろう?」
「12ペブルスで1リーフ」
「その調子だ。荷物番してるから、何か買ってきてくれ」
「何がいい?」
「何でも。食べてみたいものをいくつか選んでトレイに乗せて、金を払えばいい」

 食べ物はどれもひどい味だったが、スオミには珍しくて楽しいらしい。全部の皿を少しずつ味見していた。新鮮な自然食で育ったので、材料が何なのか見当もつかない。
「ジローはわざわざワーム・ホールを越えてアペンチュリンまで何をしに行くの?」
 ぱさぱさしたターキー・サンドイッチを一生懸命飲み下しながら、スオミはつぶやくように聞いた。
「さあね。その女医さんが昔、お前を取り上げてくれたから、大きくなったところを見せにってとこかな」
「そんな用事でワーム・ホールを越えるかしら」
「ダメかね」
「説得力ないわよ。ジロウはその女医さんの古い友人に恋してるんだけど、プロポーズする勇気がない。反抗期の娘は、バツイチだ、薄給だ、とびびっているダメなパパのお尻を叩いて、どうやってその魅力的な女性を口説くか、共同戦線を張るために女医さんと相談に行くのよ」
 キジローはしばらくあっけに取られていたが、やがて笑い出した。
「大したもんだ。それは確かにリアリティがあるな。でも入国管理の窓口で、そのドラマティックな筋立てを全部ぶちまけなくてもいいぞ。俺たちのオフィシャルな旅行目的は”観光”だからな」
「ねえ」ぐにゃぐにゃしたフレンチ・フライをつまみながら、スオミが聞いた。
「サクヤにプロポーズした?」
「ああ」キジローはあっさり答えた。
「返事は何て?」
「返事の代りに、スオミを頼むと言われた。つまり、おまえは人質だ。アカデミーに捕まらずに、お前を見事オプシディアンまで連れ出して守り切ったらごほうびがある。協力してくれるだろう?」
「協力するわ」スオミがにっこり笑った。