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 食後の冷奴を食べながら、キジローが切り出した。
 これはご飯のおかずで、むしろ前菜のようなものだ、と何度説明しても、ゲオルグにとっては冷奴は甘くないプディングで、食後のコーヒーと一緒に出したいものらしい。
「あんた、ボウズとちゃんと話したのか」
「ええ」
「それでヤツはちゃんと納得したのか」
「ええ。そう思うわ」
「じゃあ、ヤツは何で帰って来ないんだ?」
 サクヤはどう考えてもトーフと合わないコーヒーのカップに目を落として返事をしなかった。
「カリコボも心配してた。俺は何も考えずにあんたに頼っちまったが、あんたが苦しむなら・・・」
 サクヤは目をふせたまま、右手をさっと広げてキジローの目の前に差し出した。
「あんたのせいじゃないわ。それに今更抜けてもらったら困る。あなたは大したことだと思っていないみたいだけど、あなたは泉に行かなくてもミヅチと話せるし、スオミやエクルーと一息に飛べる。ただの偶然でエクルーがあなたをスカウトしたわけじゃないのよ」
「そんなこと、イドリアンならガキでもやれる」キジローが憮然として答えた。
「でもジンにはできないわ。あなたが必要なの」
 キジローがため息をついた。
「仕事の話をしてるんじゃない」
「仕事の話じゃない。あなたが必要なのよ」
「でも、ボウズだって必要だろう?」
 今度はサクヤがため息をついた。
「あんたが言えないなら、俺が話をつけるぞ」
「待って。わかったわ。もういちどエクルーと話をする。明日、あのコは苗床ドームのデータをこちらと同調させるために来るはずだから」
 キジローはがたんと立ち上がると、サクヤの腕に手をかけてハンガーまで引っ張って行った。
「キジロー?」
「長引かせればこじれるだけだ。今、話して来い」
「別に私達、ケンカしてるわけじゃないのよ?」
「でもあんたもボウズも苦しんでるじゃないか」
「キジロー!」
 タケミナカタのシートに座ったキジローがきっぱり言った。
「このままボウズが帰って来ないなら、俺がここを出て行く」



 苗床ドームの外でサクヤが薄着で震えていると、エクルーが中から顔を出してため息混じりに言った。
「入んなよ。風邪ひくよ」
 サクヤの肩にばふっとジャケットを投げかけて、「今ヒーターを入れたから、温まるまでしばらくこれでガマンして」と言った。
「キジロー、何て言ってたの」
「え?」
「ヨットに戻りながら、何かぶつぶつ言ってたろう」
「ああ。こんな、うちから30分のところで、徹夜するほど仕事あるのか、何で帰ってこないんだって」
 エクルーがくくっと笑った。
「俺、帰ってもいいのかな」
「当たり前じゃない。こんなガランとしたところで、暖房もかけないで、一体何を待っているの」
「さあ。何を待ってるんだろうね」
 エクルーの微笑む表情があんまり静かなので、サクヤは目をそらしてモニターの方を向いた。
「この映像、何?フィールド・ガイドなの?」
「そう。ただのリストじゃ味気ないし、毒草や毒虫に間違って触っても困るからって、メドゥーラ監修で」
「ふうん。3Dホログラムと解説文。でも、子供たちは文字が読めないでしょう」
「うん。だから音声コメンタリーを入れることにして、メドゥーラとスオミとイリスに話してもらったんだけど、3人いっぺんに話させたのがまずかった」
「どうして」
「面白すぎて編集できない」
「あらまあ」
 エクルーはメニューのリストから”マダー”のガイドを呼び出した。
「これなんかケッサクだよ」

 小さな白い花をつけた草の立体映像とともに、メドゥーラの声が聞こえてきた。
「花は地味だが、根は役に立つ。赤紫色の染料になるし、強心剤として利用できる」
「かじると甘くてうまい」イリスの声が割り込んだ。
「ホント?」スオミが声を上げる。
「こら。貴重な根をかじるな。第一、薬に使えるってことは毒なんだからね。まちがえば死んじまうぞ」
「でも、本当においしいの?」
「スオミ、マネするんじゃない。イリスはダイオウを1株、丸ごとかじってもケロッとしてたんだからな」
「あれは酸っぱくておいしかった」
「普通なら、一晩中ゲリで苦しむところだ。どうしても食べてみたければ、私のところに来なさい。安全なもので、お菓子を作ってやるから」
「でも、本当にうまかったぞ」イリスが主張する。
「やめんか。子供がマネしたらどうする」メドゥーラが悲鳴のような声でたしなめた。

 サクヤは3人の掛け合い漫才を聞きながら、くすくす笑った。
「編集する必要ないじゃない。素晴らしい教材になるわ」
「さっきまでグレンがここにいて映像の編集を手伝ってくれてたんだけど、笑っちゃって仕事にならなかった」
 ガイドは、ランダム再生モードで紫色の大輪のアネモネを映し出した。
「パスク・フラワー。この花が一番好き。花期、7月。来年、この花が咲く頃は、私達、誰もここにいないのね」
 サクヤがぼんやりした声で、つぶやいた。
「今日、チビたちが騒いでたけど、双子岩のゲートが開いて、スオミを待ってる時、泉から大量にカワウソが出てきたんだってさ。1匹や2匹なら喜ぶけど、300匹はいたって言うんだ。いくら何でも、ひとところから300匹も移動するかなあ」
「昨日は赤石堰の泉からレミングが湧いたって言ってなかった?ジーラッハが1000匹いたって言い張るの。まあ、レミングなら1000匹くらい渡るのかもしれないわね」
 サクヤはエクルーの始めた世間話をつなげようとしてみたが、会話ははずまず、結局沈黙が落ちた。
「俺たちだけじゃない。来年には何もかも変わる」
 エクルーがぽつんと言って、サクヤの横に立つと手をとった。
「キジローはわかってるのかな。夜、サクヤを連れてくるとどういうことになるか」

 サクヤは答えずに、エクルーと手をつないだまま、モニターの三方から投影されるアオイケトンボのホログラムを見つめていた。今日までで、この藍色のトンボを200体近く放した。トンボたちは思い思いの場所に飛んでいって、卵を生んだ。ノヅチが言うには、トンボが一番、天気を読むのがうまい虫らしい。トンボに教えてもらっって、他の生き物の移動場所を決めるという作戦だった。
 どうせこのトンボは冬を越さない。そして、ペトリには来年の冬がないのである。それでも、泉を通して運び込んだこのトンボたちの卵が、来春孵らなかったらどうしようと思うと、身体がすうっと冷たくなる。

 エクルーはモニターを見つめているサクヤを隣でじっと見ていた。もうこの人は、隣にいる俺のことなんか忘れて、自分のことも忘れて、星の心配をしているんだ。でも手を引き寄せれば帰ってくる。引き止めておかないと、この人はペトリと心中しかねない。自分の面倒もろくに見られないくせに、トンボやミンクの心配もないもんだ。俺がいなくなったら、誰がこの人の世話をするんだ?

 手を引き寄せる度に、腰を抱き寄せる度に、ほら、俺たちはこんなにぴったり溶け合うのに、と思う。紅茶に入れたミルクのように。三度の和音のように。響き合ってひとつになれるのに。

 胸が苦しいほど抱きすくめられて、サクヤは思わず、両手でエクルーを押しのけた。今まで、一度も拒絶されたことがないので、エクルーは一瞬頭の中が真っ白になるほどショックを受けた。
「ちがうの。ごめんなさい。私、おなかが・・・」
 サクヤが言い淀んだ。
「つまり卵が・・・あの、まだ・・・」
 エクルーはばっと跪いて、サクヤの下腹部に耳をあてた。
「まだ、ちゃんと着いてないみたいで・・・刺激はよくないから、あの・・・」
 エクルーは、サクヤの言葉は聞いていなかった。一心に何かを聞き取ろうとしている。
「本当だ・・・いる・・・」
「本当?わかるの?」
「うん。ちゃんといる。生きてる」
「いるのね。良かった・・・」
 エクルーは両腕をサクヤの腰に回して、お腹に顔を寄せたままじっとしている。
「エクルー?」
「今、初めて実感できたよ。俺たちはまた会える。やっと信じることができる」つぶやくように、お腹に話しかける。
「今まで信じてなかったの?あんなに自信たっぷりに言ってたじゃない。私、あの言葉を頼りに今まで・・・」
「ごめん。ウソついてた。でも、今は本当だ。もう怖くない」

 エクルーはがばっと立ち上がって、サクヤの腕をつかんだ。
「温室に帰ろう」
「エクルー?」
「こんな冷えるところで寝かせられるもんか。サクヤは無頓着だし、どうせキジローには話してないんだろう?」
「ええ」
「俺以外に、誰がナニーをやるのさ。自衛しなきゃ。さ、帰るぞ」

 朝、温室に出てきたキジローは、デッキのタープで、サクヤとエクルーがまるで2ヶ月齢の2匹の仔犬のように寄り添って寝ているのを見つけて、ふっと笑った。そして、キッチンに入ると、ゲオルグを手伝わせて朝食を作り始めた。