ミゲル





 ウイグルに来て2ヶ月が経った頃、朝食を摂りながらエクルーが聞いてみた。
「クラスで友達できた?」
「友達というのかしら。休み時間について回るお姉さんが何人かいるんだけど」
「へえ」
「彼女たちが聞きたいのってエクルーのことばかりなのよね」
「うーむ」
 サクヤが蒸しパンをかじりながら、しばらくだまっていた。
「私がヤな子だなあって思って」
「どうして?」
「お昼とか夕方、エクルーが迎えに来た時、彼女らが見てるのを知っててエクルーに飛びついてキスしちゃうの。何だかイジワルよね」
 エクルーが笑ってしまった。
「多少イジワルになってでも領有権を主張してもらわなくちゃ困る。寛大に貸し出したりしないでよ」
「貸し出したりはしないけど、一度うちに呼んじゃダメ? みんな来たがってるの」
「いいよ。来月、君の誕生日だろ? 10人くらいまで招待していいよ。アルやメイリンたちと研究所の何人かも来るけど」

 サクヤがエクルーの割ってくれたザクロを受け取りながら聞いた。
「エクルー、研究所でもてるでしょう」
「主に男の人にもててる」と涼しい顔でこたえた。
「男の人?」
「うん。研究所ではどうやら俺はゲイ、ということになってるらしい」
「どうして?」
「さあ? 昔からそうだけど、俺ってそう見えるらしい。便利だから特に否定しないんだけど。ゲイの方がナイーブだから女の人より断るのがラクだし」
「へえ」
「所内の俺の設定はこうだ。めいが婚約者だっていうのはカモフラージュで、スオミはまじめだから利用されてるのに気がついていない」
「ひどい」
「他人なんてこんな荒唐無稽でひどい話の方を信じたがるもんなんだよ。アルがまた面白がってうわさをあおるもんだから」
「何言ってるの?」
「思わせぶりなこと言ったり、キスしたり、しりつかんだりする」
「何考えてるのかしら」
「俺もそう思う。2人ともこんなヤサ男タイプのカップルなんてあるもんか」
「ポイントはそこじゃないでしょう」
 サクヤはため息をついて、食べ切れなかったザクロとパンを包んでかばんに入れた。
「お昼迎えにこないでいいわ。私が研究所に行って、アルが何してるか見てやるわ」
「待ってるよ」
 エクルーはコーヒーを飲みながら、手をひらひら振った。


 ラボでエクルーは熱い視線を耐えていた。3日前に入ったミゲルだ。ガタイの割りに線の細い感じの男の子だと思っていたらそういうスジだったらしい。
 ガポっとした服を着たり1人にならないように気をつけていたが、あんまりしつこく見つめられるので、いっそ2人きりになって手ひどく振ってやろうかと思い始めた。アルは面白がってイチャイチャしてあおるだけで、何の助けにもならない。だんだん鬱陶しくなって腹が立ってきた。計算機室に1人で座っているのを見つけて、ミゲルの机に手をついた。
「俺に何か用があるようだけど。はっきり言ってくれないかな」
 ミゲルはエクルーを見上げてにっこり笑った。
「やっと話しかけてくれたね」
「あれだけジロジロ見られたらね。正直言ってあんたの視線は失礼だと思う」
「すみません。あなたが去年亡くなった兄さんにあんまりよく似ているものだから」
 エクルーはげんなりした。口説き文句のよくあるパターンだ。
「あんた俺より年上だろう? 俺はいろいろ混ざった顔だとは言われるけど、ヒスパニックに間違われたことない。それとも血のつながってない”兄貴”なのか?」
「そう、僕の恋人でした」
 そう言いながらミゲルは机についたエクルーの手を取って立ち上がった。背はいくらかエクルーの方が高いが、身体の厚みでかなり負けている。

 早まったのかもしれない。
 手を振り払おうとして、逆に重心をとられて床に倒れこんでしまった。
「怖がらないで。ひどいことをするつもりは……」
「十分ひどいよ。尻もちうったし、第一俺はヘテ口だ。男に口説かれてもうれしくない」
「あなたの年なら自分の嗜好に気づいてないだけかもしれないよ」
 ミゲルが両手をエクルーの身体の両脇について迫ってくる。
「本当に好きな相手なら、死んで一年もしないうちに似た誰かを身代わりにできるもんか!」
「そう? 巡り合わせというのは運命だろう? 時間なんか関係ない」

 じゃあサクヤは? 小さいサクヤに出会ったのはサクヤが散って半年の頃だった。俺がミゲルを軽薄と責める権利があるのか?
 思考が止まっている間に押さえ込まれてのしかかられた。
 キスされながら男におそわれた女性もこんな不快感を味わうんだろうなあ、と考えた。俺は恐怖感を感じていないだけマシだ。
 このぬちこいミゲルはどのくらいで気が済んでくれるんだろう。

 その時、ドアがバタンと開いてサクヤが飛び込んできた。
「エクルー!!」
 ミゲルはふいを突かれてサクヤに突き飛ばされた。サクヤはそのままエクルーに馬乗りになるとキスをしてきた。
 花のような甘い香りにくらくらした。目を閉じて腕をサクヤの背中に回すとぎゅっと抱き寄せた。
「ありがとう。助けに来てくれて」
 サクヤは両目に涙をためたまま、きっとミゲルをにらんだ。
「大丈夫。このお兄さんもわかったはずだ。君がカムフラージュなんかじゃなく、本当の婚約者だってね」
 エクルーは身体を起こすと立ち上がってサクヤを抱き上げた。ミゲルはうつむいていた。
「ごめん。わかったよ。強引なことして悪かった」
「いいよ。ラボのメンバーとしてけんかしたくないんだ。これからは普通に接してくれ」
「わかった」
 サクヤを抱いたまま部屋を出て行きかけたエクルーが振り返って聞いた。
「ひとつ教えてくれ。さっき俺を倒したの、あれ何という技だ?」
「タンゴだよ」
「タンゴ? タンゴなら踊ったことあるのに」
「リーダーとして踊ったんだろ? パートナーの姿勢をふいにさせられたから、バランスを崩したんだ」
「なるほどね。いろいろ勉強になった。じゃ、また明日」

 サクヤはエクルーの肩に顔を押し付けてまだ泣いていた。
「よくわかったね、俺が襲われてるって」
「だって」まだ鼻声だった。
「だって?」
「見えたんだもの。あのオジさんの顔が。それとエクルーが気持ち悪いって思ってるのがわかった」
「俺がどこにいるかもわかった?」
「うん」
「そりゃあ……愛だな。悪者に襲われた王子様を救いに来た勇敢なお姫様。お礼に一生の忠誠と愛を誓います」
 サクヤはやっと笑ったが、それで気が抜けたのか今度は震え始めた。
「今までどういうことか実感が湧かなかったの。好きじゃない男性に迫られるのってあんあに気持ち悪いものなのね」
「ミゲルはまだ大分紳士的な方だよ。レイプってのはもっと……恐ろしいものだ。俺は本気になればミゲルをふっ飛ばせたけど、ラボの仲間だからガマンしただけだ。君は俺より小さくてかわいいんだから、ちゃんと気をつけてくれよ。狼の前でスキを見せないように」
「うん。自分の身も守れるように柔術でもタンゴでも覚えるわ」

「それはぜひ現場を見たかったな」とアルが笑った。
「冗談じゃないよ。ドレッシングなしで室温のカルパッチョをむりやり食べさせられたみたいだった。ズボンはビンビンだし。こっちがその気じゃないと、キスってあんなに気持ち悪いもんなんだな」
 アルがゲラゲラ笑った。
「すぐ隣の演習室にいたくせに頼りにならない義兄さんだな」
「本当にピンチなら飛んでくけど、お前まだ余裕があったろう」
「まあね。どうやったら角が立たずに断れるか考えてた」
 アルはしばらくエクルーの顔を見ていてボソっと言った。
「お前、また背が伸びたな。銀髪のヤツを越えただろ」
「そうかな。そう言えば、そうかも」
「来年になれば年齢も追い越す。良かったな。これが一番サクヤの望んでたことなんだろう」
 エクルーはテントの煙出しから空を仰いだ。
「全く人の気も知らないで。俺は一生2人きりでいられるならそれで良かったのに」
「でもキジローを連れてきた」
「うん。他でもないサクヤ自身が、運命から逃げたがってるのがわかったから」
「お前、いいヤツだな」
「バカなんだよ」
「あーっ、またイチャイチャしてる!」アルがエクルーの肩を抱いていたので、サクヤが抗議の声を上げた。
「アルにはスオミがいるでしょう!エクルーに手を出さないでちょうだい」
「君のオジさんが泣きべそかきそうだったから、なぐさめてたんじゃないか」
「どうせまた大の大人2人でサクヤの話をしてめそめそしてたんでしょう」
「当たりだ。手厳しいな」
「私がママのこと思い出して泣くより、エクルーをなぐさめるのに忙しいって間違ってるんじゃない?」
「いいじゃないか。サクヤが元気なら」
「もう。私の周りってどうしてこう泣き虫な男性ばかりなの? パパもグラン・パも含めて、本当に」
「しょうがないよな。男って弱くできてるもん。女性に勝てるわけない」
 エクルーはサクヤを抱き上げてキスをした。
「頼りにしてるよ。お姫様」

 翌日の昼休みにサクヤがラボに行くと、ミゲルが小さなブーケを用意して待っていた。
「すみません。反省してます。これで許してくれないか?」
「おい、ミゲル。謝る相手がちがうだろう」
「だって ”女を泣かさない”ってのが俺のポリシーだったのに、こんなに小さな子を泣かせちゃって」
「とにかく人の婚約者に花なんか贈るな」
 サクヤはくすくす笑った。
「2人はもう仲直りしたのね。なら、私はもう怒ってないわ。でもミゲルさん。ゲイでもヘテロでも、恋には変わりないと思うけど、無理強いはダメよ。そんなアプローチで相手がなびくなんてフィクションだけの幻想ですからね」
「ごめんなさい。本当に反省してる。花、受け取ってくれる?」
「ありがとう。青と白いブーケ。私の好きな色をエクルーに聞いた?」
 ミゲルがにこっと笑った。
「上に3人姉がいたから、昔から女の好みにはくわしいんだ」
「さすがゲイだな」とエクルーが言った。
「君もね。こぎれいで女の扱いがうまい。いかにもゲイだからウワサにだまされた。ついでに言うと俺はバイ・セクシャルだ」
 エクルーの顔がさっと白くなった。
「サクヤ、その花返すんだ」
「どうして? 一度いただいた物を返せないわ。それに私、男性に花束もらったの初めてだもの」
「いつも山にしてあげてるじゃないか」
「あれは薬草の束じゃない。お花も混じってるけど」
「ミゲルにおそわれても助けないからな!」

 そう言い捨ててエクルーはラボを出て行ってしまった。
 後ろではアルが大笑いしてるし、ミゲルはおろおろしている。
「何かまずかったかな」
「平気だよ。サクヤが甘やかすから、すっかり独占欲が強くなっちゃって、まあ。この間はシャマーリ、今度はミゲルに焼きもちか。怒るとぷいっと出て行くところも、いつまでもガキだねえ」とアルが笑った。
「それからミゲル。エクルーは多少、乱暴に扱ってもかまわんが、サクヤの後見人には俺やメイリンも入ってるんだ。本気で泣かせたら覚悟しといてくれよ?」
 ミゲルが青くなったので、サクヤは笑いながら手を取った。
「大丈夫。もう仲直りしたもの。ミゲル、ラボでのエクルーの様子、教えてね。アルはうそばっかり言って私をからかうのよ?」

 その日、エクルーが論文の内容をメイリンと詰めていたら6時過ぎてしまった。
「続きは明日でもいいかな? 原稿が真っ赤になっちゃったからうちで整理してくるよ」
「とにかく説明を少しはつけてちょうだい。論文を1P以内に誰もがあなたやアルみたいに察しがいいわけじゃないんだから。まとめなきゃならないルールなんかないのよ」
「ホメ言葉ありがとう」
「それと」メイリンがつけ加えた。
「あんまりサクヤを独占しないように。ランチぐらい友人と食べさせてあげるようにしたら? あの子、知り合いは大人ばっかりじゃない。空き時間はここかヤスミンのテントにいるし」
「うーん。どちらにしろクラスにも同年代の子なんかいなくて話が合わないらしいけどね。ちょっとサクヤの友人関係にも気を配ってみるよ」
「そうじゃなくて。あの子の全てを把握しようとしないで解放してあげなさい。あなたの知らないあの子だけの世界も必要だわ。支配欲の強い男は嫌われるわよ」
「わかった。論文には説明を加える。サクヤの生活に口を出しすぎない。努力してみるよ」
「また明日」
 演習室に戻るとアルがまだ数人の仲間と演算をしていた。
「よお、ダメ出し終わったか?」
「終わらないけど、遅くなったから続きは明日。サクヤは? 来てないの?」
「お前を待ってたけど退屈そうだったからミゲルが誘ってバザールに行った。帯とか帽子を見るって」
「それで黙って行かせたの?」
「うん。何か問題あるか?」
「大ありだよ!」エクルーが飛び出して行ったので、アルはくっくっくっと笑った。

 サクヤはミゲルの肩にちょこんと座って、いつもと違う視線でバザールを楽しんでいた。ミゲルは先週このステーションに来たばかりなので、自分が案内役になれるのも楽しかった。
 打ち解けてみると、ミゲルは話しやすいし趣味の合う友人だとわかった。染料や織物にも興味を示すし、細かな装飾品にもくわしかった。
「あ、あれ。飲んだことある? お米で作った甘い飲み物。しょうが味なのよ。2つください」
「へえ、温かいんだ。うん、おいしい」
「それと、あの豆をつめた揚げパンも2つ。花束のお礼にごちそうしてあげる」
「そんな、女性にごちそうになるわけにいかないよ」
「男性に借りを作るなっていうのがエクルーの家訓なの」
「厳しいんだね」
「でもこれはそれとは別よ。歓迎の儀式。これでバザールの人があなたの顔を覚えたから、次から言葉がわからなくても指差すだけで買い物ができるわよ」
「君、そんなに顔が広いの?」
「私というより私の後見人のメイリンがね」
 そう言ってサクヤはくすくす笑った。
「きっと今夜またメイリンのところに問い合わせがくるわ。サクヤがエクルー以外の男と歩いてたけどあいつは誰だ?ってね」
「ふうん。小さな世界なんだな。今度はあの緑のヤツ食べてみない? お礼のお礼にごちそうするよ」
「あれ、すっごく甘いわよ。ラマダン明けを祝うおもちだもの。あの長いねじったヤツがおいしかった」
「じゃあ君には長いヤツ。俺は緑のに挑戦しよう」

 ミゲルが緑色のお菓子のあまりに濃厚な甘さにうへえと言ったのをサクヤがけらけら笑ってるところにエクルーが追いついた。
「何で勝手に出かけるんだ!」
 乱暴に腕をひっぱられたので甘酒のカップが地面に落ちた。
「おまけにずっと移動してるし。この人出で見つけるのにどれだけ苦労したか」
 エクルーの大声に露店の人も買い物客もみな耳をそばだてている。
「勝手じゃないわ。アルに伝言頼んだでしょう?」
「何もこんなヤツと2人で出かけることないじゃないか。あんな事があった後で!」
「エクルー!」サクヤが珍しく大きな声を出した。
「ミゲルに謝って。こんなヤツって何? ミゲルは何度も謝ったじゃない。もう友達よ」
「友達なもんか。こいつはバイでねちこい変態だ。次はサクヤを押し倒すぞ」
 サクヤの顔が真っ青になって、次に真っ赤になった。肩をぶるぶる震わせて涙を目にためている。

「エクルーがミゲルに謝るまで家に帰らないから!」
 そう叫んでかけ出した。涙で前が見えないので、すぐ人にぶつかった。その人に抱き上げられたのでびっくりした。
「シャマーリ!」
「アルに聞いて探しに来たんだ。アルも向こうで探してる。エクルーが血相変えて飛んでったというんでね」
 シャマーリはサクヤを肩に乗せたままつかつかと近寄ってエクルーの顔に平手を張った。
「頭を冷やせ。サクヤはしばらくウチで預かる」
「待ってくれ」
「大事なら泣かせるんじゃない。ミゲルとは今夜中に仲直りしろ。そうしないと明日ラボに入れないとメイリンからの伝言だ」
 そう言い置いて、シャマーリはサクヤを広い肩に乗せて帰ってしまった。

 エクルーが左ほおに手を当てて呆然としていると、後ろでミゲルがぽつんと言った。
「ゴメン。勝手につれ出して。サクヤ、4時から来てたんだよ。しょんぼり待ってるのが可哀相でつい声をかけたんだ。でも、俺みたいなバイのねちこい変態に連れ去られたら心配して当然だよな。今後サクヤにも君にもつきまとわない。約束するよ」
 立ち去ろうとするミゲルの腕をエクルーがつかんだ。
「待て。あんたに先に謝られたら俺の立つ瀬がない。ちょっと待ってくれ」
 エクルーは90度頭を下げて、大きな声で言った。
「すまん。頭に血が上ってバカな事を言った。単なる焼きもちだ。許してくれ。でないと明日から職を失う」
 ミゲルがにこっと笑って、芝居がかったしぐさで両手を広げてエクルーの肩を抱いた。
「許してるよ。最初から」
 見物人から拍手が起こった。ぎょっとして固まっているエクルーの耳元にミゲルがささやいた。
「本当に可愛いな、君は。サクヤとセットで君が気に入ったよ」
 エクルーは鳥肌が立った。
「もうそういうのはカンベンしてくれ」
「もう? 前にもこういう事があったの?」
「それは俺が説明してやろう」とアルが会話に入ってきた。
「だが、とにかくこの場からズラからないと、エクルーはサクヤにフラれて男に走ったって評判になるぞ。3人で去ろう。3人で」

 その後、3人で屋台で馬乳酒を酔っ払うまで飲んだ。
「ふうん。サクヤの前にもサクヤがいたんだ」
「エクルーの前にもエクルーがいたしな」
「ややこしいんだね」
「ややこしいよ。いつも妙な三角関係にハマり込むし」
「まあでも、そのキジローさんの気持ち、わかるな。君とサクヤって何だかいいカップルなんだよね。うらやましいというか、見てるだけで幸せになるというか」
「俺もそれに一票」アルが杯を上げた。
「でももう少しお前はサクヤと距離を置いたほうがいい。ずっとベッタリだとお互い息が詰まってくるぞ。お前はともかく、あの子はまだ人格形成の途中なんだから。しばろうとするな」
「しばってる? 俺がサクヤを?」
「正常な焼きもちやいた恋人というより、年頃の娘を持った父親みたいになってるぞ」
 ミゲルがクックッと笑った。
「悪い。でもあのタンカには驚いた。自分がおそわれた時だって声を荒げなかったのに」
「いや、あれは本当に悪かった。すまん。俺、どうかしてたんだ。押し倒されたショックがまだ抜けてなかったもんだから」
「ショックだったんだ?」
「キスされたことより、簡単に床に転ばされて押さえ込まれたってことの方がね。体術は訓練してたつもりなのに、自身喪失だよ。まさかタンゴとは思わなかった」
「キスはショックじゃなかったんだ?」
「いつもアルにされてるから」
「おい、俺は舌入れてないぞ」

 翌朝、目覚めてみると隣にミゲルが寝ているので、エクルーはギョッっとした。飛び起きようとして頭がズンと痛んだ。
「何だ? 何があったんだ?」
「おはよう。どうやら初体験らしいな」
「何が初体験だって?」
 自分の声が頭の中に響く。
「宿酔。心配しないでも昨夜はおそってないよ。つぶれた君をアルと2人でここまで運んでくたびれたんで泊めてもらった」
「ゲストハウスは目の前じゃないか!」
「それぐらいの余録がついてもいいだろう? 大人しく横で寝顔を見てただけなんだから」
「余録って! つー……」
「頭が痛いんだろ? でももう起きないと。何か食べられる?」
「茶がゆ作る。食ってくだろ?」
「何だかわからないけどいただくよ」

 昨日と同じ服でラボに出て来たミゲルを見て、メイリンが片まゆを上げて「仲直りしなさいと言ったけど、そこまで仲良くしなくていいのよ?」と言った。
「何か誤解してるだろ。酔っ払った俺を連れ帰ってくれて、うちに泊まっただけだよ」
「隣で寝て、朝のコーヒーを一緒に飲んだけどね」
「ミゲル!」
「まあ、とにかく仲良くなってくれてけっこうだわ。サクヤは今朝、うちから学校に行ったわ。昨夜はカラと一緒に寝てもらったの」
「ありがとう。ご迷惑おかけします」
「まあ、たまにはこういう普通のティーンエイジャーのような騒ぎを起こしてもバチは当たらないんじゃない? あなた14から研究員やって生活費かせいでいるんだものね。でも顔色悪いわよ。今日、論文書けそう?」
「大丈夫。起きた時よりラクになった」

 昼休み、ミゲルについて来てもらって隣の建物にサクヤを迎えに行った。サクヤはエクルーを見ると、ぱっと明るい顔をしたが、すぐに引き締めてぷいっとそっぽ向いた。
「ごめん。ミゲルにも謝って仲直りした。バカな事したよ。うちに帰ってきてくれないか。チャイニーズヌードル作るから、ミゲルも一緒にうちで昼メシにしよう」
「ミゲル、本当にいいの? エクルーはちゃんと謝った?」
「うん。昨日は一緒に飲んで、うちに泊めてもらって朝がゆをごちそうになった」
「じゃあいいわ。帰ってあげる」

「例の検査、やっぱりサクヤを説得して受けさせるよ」
 その日の午後、エクルーがぼそっと言った。
 アルはモニターから顔を上げた。
「へえ、気が変わったのか」
「うん。俺が押し倒された時を、サクヤ、部屋に入る前にミゲルの顔が見えたらしい」
「ふーん。まあ、そういうのは程度の差こそあれ、一卵性双生児とか母子の間でもあることだ。あんまり深刻にとることないさ」
「何だよ、あんたが検査をすすめたくせに」
「うん、まあ受けてみれば安心だろうけど……」
 アルはモニターに顔を戻して操作しながら言った。
「大した結果は出ないと思うよ」
「どうしてそう思うのさ」
「うん、こっちに来てからずっと近くで見てるけどサクヤはあんまり能力者って感じしないんだよね。ほら、大きいサクヤと似てるよ。予知や雷は星に借りてた力なんだろう。サクヤ自身の能力ってたぶん、鳥が寄せられるとか植物育てるのがやたらうまいとか、そういうところだった。小さいサクヤもイドラ生まれでアズアの子だから素質はあると思うけど、まだ表に出てきてない。検査じゃ何も出ないだろう」
「そういうことなら、よけいに受けさせたいな」
「何で?」
「サクヤ自身がずっと気にしてるから。安心させてやりたい」
「そういうことなら、準備しよう」