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 毎日、夕方テントを訪れる度に、イリスが見間違えるように美しくなっていて、ジンは眩暈がした。昨日より今日。今日より明日。花びらが一枚ずつほころぶように、光り輝くように。
参拝者が殺到して、お布施のお酒や米があふれたので、メドゥーラは制限することにした。
「もう祭りの時にみんなで飲む分は十分にある。米も置くところに困るくらいだ。後は祭り当日に持ってきておくれ。これ以後は、人差し指の肉球より大きなものは持ってこないこと」
 それで、みんな青豆1粒とか、干しコケモモ1粒とかをお供えして、イリスを拝んでいった。祭壇が出来て、通しで儀式の練習が始まると、ますます人が殺到した。メドゥーラが置き場所に困った酒や食べ物を供出すると、夕方はいつも酒盛りになった。
「こんなんで気が散らないか?」
 ジンはわいわい騒いでる参拝者を見渡して聞いた。
「こう見えて、こいつらはみんなちゃんと祈ってるんだ。一人で通すより泉の声がクリアーだし、時々地面が揺れるほど強く共鳴する」
 そう説明するイリスの顔が、上って来た月の光を受けてまぶしい。ジンはのどがカラカラになった。
「ちょっとブラブラしててくれ。道具を片付けてくる。今夜は明け方まで月が沈まないから、のんびりできるぞ」
 祠に歩いていく後姿を見ながら、ジンは頭がガンガンした。明け方まで?イリスと2人で?ちょっと前まで2人で暮らしていたなんて信じられない。俺はどうやって正気でいたんだろう?


 酒盛りをしている連中と話していたメドゥーラをつかまえて、人がいないところまで引っ張っていった。
「どうしよう。どうしたらいい?」
 メドゥーラは面食らった。
「何だって?何がどうしようなんだ?」
「そうだ。あんた、一緒にいてくれ。イリスと話したいが、2人きりはやばい」
「何がやばいって?」
 ジンは必死の形相で叫んだ。
「2人きりで手を出さない自信がない!」
 メドゥーラはあっさり言った。
「出せばいいじゃないか」
「メドゥーラ!」ほとんど絶望的である。
「言ったろう?乙女の潔斎は厳しいもんじゃない。もともと集団お見合いのために集まっているんだから、たいがいの若い連中は練習期間中にできてしまう。親は自分の経験上、タブーは有名無実だって知っているから、形だけ注意するんだ。つまり、あんたを阻むものは何も無い。ただ、屋根の下には入らないでくれ。春の乙女は冬の黒い男と2人きりで祠に入って殺されるんだ。その儀式だけは本番まで取っておいてくれ」

 ジンは絶体絶命に追い詰められた。メドゥーラはポンと肩を叩いて笑った。
「まあ、ちょっと落ち着け。それじゃ、できるものもできんぞ?ちょっと酒でも飲め。ほーい、アグア爺さん、この男がイリスを拾ったんだ。さっき話しただろう?」
 青い目にうす茶色の毛のイドリアンが杯を上げた。
 爺さん?大してグレンと違わないように見えるが。イドリアンの年齢は、まったく読めない。
「あんたがジンか?私は北の集落地のまとめ役なんだ。まあ、飲んで。感謝しとるよ。イリスのことも、あんたのしてくれてる仕事も。さあ、飲んでくれ」
 アグアが通りがかる人ごとにジンを紹介して、その度に杯の供応があるので、もともと酒に強くないジンは目が回ってきた。月が高く上るにつれて、ますますたくさんのイドリアンが丘に集まってきた。酒を飲みながら、歌を歌ったり、楽器の練習をしたりしている。


「毎年こんな風なのかい?」
 ジンはとなりに座っていたイオの父親に聞いた。
「まあ、毎年こんなもんだ。でも今年はとりわけ、みんな熱心だよ。何といっても乙女がきれいだし、第一、みんなペトリが気になってる」
「信じてるのか?ペトリが壊れるって?」
「ミヅチがそう言った。だから、そうなる」
 男は簡単に言った。
「どうして信じられるんだ?そんな途方もないこと」
「見えたから。ほら」
 男が自分の手を、ジンの手に無造作に重ねた。

 いきなり視界が暗転して、足元がなくなった。真っ逆様に落ちる。
 スパーク。鳴動。凄まじいエネルギー。爆発。
 天も地もない。上も下も・・・光も影も・・・混沌に返る。世界が・・・ひとつ・・終わる。

「父さん!ジンは慣れてないんだから、いきなりまともに見せるなよ!」
 イオが止めた時には、酒の酔いも手伝ってジンはのびていた。


 ジンが気がつくと、1人でテントで寝ていた。ほどなく入り口の垂れ幕をくぐってイリスが入って来た。
「おや、起きたか。気分はどうだ?泉の水を汲んで来た。まず水を飲め」
 イリスに差し出されたカップから冷たい水を飲み干して、すぐお替りをもらった。
「俺。どのくらい寝てた?」
「2時間くらいかな?まだ月は中天にもかかっていない。酒盛りも続いているぞ」
「俺が見たのは・・・」
「忘れろ。考えても不安になるだけだ」
 イリスが隣に座って、お替りの水を差し出した。
「だが・・・」
「忘れろ。俺はあんたの鈍感なところに救われてるんだ。あんたに触れれば不安な夢を忘れられる。ジンまで一緒になって泉の夢を見ないでくれ。俺のために鈍感でいてくれ」

   ジンは身体の向きを変えて、とっくりとイリスの顔をみた。
「君もあんな夢を見るのか」
「見てる。いつも。目をそらすことができるのは、ジンの横にいる時だけだ。ジンに触れると・・・夢を忘れることができる」
「今も見てるのか?」
「いつも見てる。それが役目だ。でも今だけ・・・忘れたい。忘れていいだろう?月が沈むまで」
 ジンがイリスの手を取った。
「これで見ないですむのか?」
 イリスが目を閉じて大きく息をついた。
「うん。楽になった。でもまだ目がチカチカして・・・耳がわんわん言ってる。残像が・・・」
 ジンが長い腕ですっぽりイリスの身体を包んだ。そして片手でそっとイリスのまぶたを覆った。
「今だけ休んでいい。忘れろ・・・月が沈むまで」
 いつも強い光を放って挑んでくる深緑の瞳を隠すと、イリスは驚くほど壊れやすく小さく見えて、胸が痛むほどだった。ジンの腕の中で軽くくちびるを開いて、静かに呼吸している。
「忘れさせてくれ・・・月が沈むまで」