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 エクルーとスオミは、まだ宙に漂っている。あの手に触れたい。2人の見た物を見たい。そこにキリコのヴィジョンもあるのだろうか。俺はそろそろとエクルーの方に手を伸ばした。
(やめておけ)ヤマワロのおだやかな声がキジローを止めた。
(あんたが触れた途端、2人はシールドが破れてパニックの嵐に巻き込まれるだろう。まだ2人はそのショックに耐えられる状態にない。まず体力を取り戻さないと、悪夢に負けてしまう。あんたも一緒に3人でのたうち回ることになる。あんたやエクルーは、それでも何とか抜け出せるかもしれないが、スオミは・・・)
 ヤマワロは言葉を切って、丸くなったスオミを見た。人間とは思えないほど小さく身体を折りたたんで、自分を守っている。顔が真っ白で生気がない。
(この子はこんなに小さいのに、色んなものを見て来ているんだ。悪夢に取りつかれれば、これまでのすべてのトラウマが増幅されて、彼女の脳裏でくり返し展開されることになる。例えば、彼女を逃がすために目の前で殺された父親の最期の姿とか)
 くそっ、汚いな。こんな少女を苦しめて、情報を盗むのは不本意だ。
 キジローが何も言わないのに、ヤマワロが(ありがとう)と微笑んだ。いつの間にか、キジローは表情豊かとはいえないこの巨大な両生類の気持ちを読むのに慣れてしまった。
(準備いいわ。連れて来て)
 ククリの声が聞こえた。カリコボが2人を水面に運び、一瞬で消えた。

 ヤマワロは、キジローの方をふり向いた。
「さて。後は女たちに任せておけばいい。君はどうする?船でイドラに帰ってもいいが、時間がかかるだろう?サクヤが心配して双子岩のゲートに待機している。泉から帰って、事態を説明してやったらどうかね?」
 キジローは頭上はるかな長老の顔を見上げた。声を張り上げたりしない。つぶやくように言葉に出すだけで、いや、おそらく言葉に出すだけで、いや、おそらく言葉に出さなくてもミヅチには届くのだ。
「俺はサクヤのところに帰っていいと思うか?つまり・・・俺は、あの2人とあそこにいていいんだろうか?」
(さて。いけない理由があるかね?)
 くそっ、絶対に笑ってやがる。バカなことを聞いた。どうして大きなカエルに”わかっているよ”と言いたげに、温かく微笑まれなければいけないんだ。
(今回の一連の事件で、サクヤはずいぶん夢に苦しめられた。イドラに移り住んで最初の3年はほとんど寝ていないはずだ。ところが、この半年、サクヤはけっこう眠れるようになって体力も取り戻した。君の貢献だよ、キジロー。我々は、サクヤのために君が来たことを喜んでいるんだ)
 不覚にも、キジローは感動してしまった。
「わかった。ありがとう。ゲートでイドラに戻る。タケミナカタはちょっと置いといてくれ」

 泉の縁で、サクヤが青白い顔で待っていた。キジローを出迎えるように近づいて来たが、今回も数歩手前で立ち止まってしまった。
「ただいま」キジローが言うと、ちょっとホッとしたようにサクヤが微笑んだ。
「お帰りなさい」

 それから数日、エクルーが帰って来るまで、キジローはラボでサクヤの手伝いをして過ごした。もう船でうろうろする必要もなかった。あいつらは俺たちを見つけた。放っといても、向こうからやってくる。
 作業の合間に、ポツポツとお互いのことを話した。それにしても、これまでのサクヤとエクルーの経歴は多彩だ。キジローは圧倒されてしまった。ジンと出会った大学。辺境探査船。内戦地での医療活動。連邦の研究所。特に、エクルーは就いたことのある職種がざっと30を超える。コック、パティシェ、バリスタ、ヘアースタイリスト。いくつかの楽団やバンドでチェロやベースを弾き、大型船に機械工として乗り組んでいたこともあるという。そうして2人で転々としながら故郷の星の生き残りを探し続けて、イドラにたどり着いた。
「何のためにこんなことをしているか聞いていいか?」キジローが質問した。
「何のために?」
「スオミのことも、アルの件も聞いた。それにしても、星の水や生き物を丸ごと移住させるだの、連邦警察も知らない陰謀をぶっつぶすだの、少数の個人でやることじゃないだろう。下世話な話をすれば、金だって途方もなく費やしているんだろう?」
 サクヤがにっこり笑った。
「お金は心配しないでいいわ。私たち、鉱山をいくつか猫ババしちゃったの。辺境探査船で回った時にね、換金価値が高くて、資源開発局に報告したら、あっという間に星ごとボロボロに掘り返されそうな鉱脈を内緒にしておいたの。時代がもっと落ち着いて、高等生物のいない惑星の生態系でもちゃんとと配慮してくれるようになったら当局に報告してくれるよう古い友人に地図を預けてあるの。幸か不幸かきな臭い時代が続いているから、鉱石を使い放題というわけ」
「だが、危険なことも多いだろう。今回みたいに」
「私たち、別に正義の味方じゃないわ。至極、利己的な理由でやっているのよ?」
「利己的?」
「ええ。私とエクルーはややこしいパズルの中に組み込まれてしまって、もう長いこと抜け出せないの。こうして夢で指示されたところへ行って、ひとつずつもつれた糸をほどいていけば、いつか開放されるんじゃないかと願っているの」
「そんなんで、いつ自分の人生を送る気だ?」キジローが聞いた。
「それじゃ、寿命が300年あっても足りないじゃないか」
 サクヤが顔を上げてキジローの方を見た。その顔には、まるで裏切られたような傷ついたような表情が浮かんでいる。
「俺、何か悪いこと言ったか?」
「そうじゃないの」
 サクヤがうつむいた。
「そうじゃないの・・・私、てっきりあなたはジンかエクルーから聞いているものと思っていたの。そうだったの。知らなかったのね。知らないから、あんなに無造作に、私を抱くことができたのね」
 キジローは罠にかかったような顔をした。
「何のことだ?俺が何を知らないって?」
「私がどんな人生を送って来て、どんな風に人生を終わるかよ」
「人生を終わるだって?」
「私やエクルーが死んでも、お墓は要らないわ」
 サクヤは寂しげな微笑を浮かべた。
「あんた、前にもヘンなこと言ってたよな。自分が存在していることの方が不自然だって。どういう意味だ?何かの比ゆじゃないのか?故郷の星が壊れたことやあんたがヘンな夢を見ることは知ってる。前生の記憶を継いでいることも聞いた。他に何があるのか?」

 それで、サクヤは話し始めた。実生を次々にミズゴケに包んでトレイに並べながら、まるで昨日の献立について話すように淡々と。
 サクヤの話が終わっても、キジローはしばらく言葉が出てこなかった。何も言えなかった。サクヤに、たとえこのことを知っていたとしても、変わらずあんたを受け入れた、と伝えるべきだと思うのに、どう伝えればいいのかわからなかった。どんな思いを抱えて生きてきたか、その気持ちをわかればいいのに、と伝えたい。でもどんな言葉で表しても、2人のこれまでの人生に比べて軽すぎる。でも何か、何か言いたかった。
 サクヤがどんな存在であろうと、たとえ何歳であろうと、否定したりしない。支えたいと思っている。俺の気持ちは変わっていない、と。でも、俺はそもそも、自分の気持ちをサクヤに伝えていない。

 コケ玉に水分をスプレーしてカバーをかけると、サクヤは立ち止まってインキュベーターに入れた。そして何事もなかったかのように微笑むと、
「休憩しましょうよ。お茶を入れるわ」と言った。先に立ってラボを出て行こうとしたサクヤを、キジローは後ろから抱きしめた。包むように、包み込むように、何も言わずに長い間。
 最初、身体を固くしていたサクヤの呼吸がすこしずつ穏やかになって、やがてため息をひとつついた。そっと手をキジローの腕に重ねると、ぽつんとつぶやくように言った。
「キジロー。あなたを解雇するわ。できるだけ早くイドラを離れて」
 キジローはしばらくだまったまま、サクヤを抱いていた。そして静かにずばりと切り込んだ。
「なぜだ?俺をキリコのクローンに会わせないためか?」
 サクヤが息を飲んだ。
「悪いが、ここに来てから俺もいろいろ訓練されちまってな。あんたの夢をのぞくのも、大きなカエルどもとしゃべるのも。だから、俺をかばってのけ者にしてくれなくていい」
「ごめんなさい」
「何で謝るんだ」
「ごめんなさい」
「泣くな。あんたのせいじゃないじゃないか」
「ごめんなさい」他に言葉が出てこなくて、サクヤはただくり返した。
 キジローは腕に力をこめて、ぎゅっと抱きしめた。
「あんた・・・ずっとこんなものを見て来たんだな・・・3000年も」