『しろたえの』





 





   パールは最後のシーツをぱんっと広げ、干しひもにかけた。真っ白に洗い上げられたシーツから立ち上るせっけんの香りを胸いっぱいに吸い込む。いい天気。いい気持ち。

   エルザ姫付きのメイドになって以来、洗濯はパールの仕事ではないが、時間が空いた時など、時々シーツを洗わせてもらう。大きなベッドにかけるシーツを大量に洗うのは重労働だ。だが達成感が素晴らしい。裏庭に長いひもを20本張って、それ全部に、真っ白なシーツが風でひるがえっている。
 人生の問題は、そう簡単に解決できないものばかりだけど、こうしてシーツを100枚くらい洗うと、ほんのちょっと前進した気持ちになれる。くよくよ思い悩むよりも、せっけんの香りに包まれている方がいい。


 風にゆれるシーツの間を歩くのも好きだ。姫さまがお小さい頃、よくここでかくれんぼをしたものだ。いい香りのする真っ白な空間。シーツの間で、お話をお聞かせしたこともあったっけ。

「ネバーランドってこんなところかも知れませんね」
「こんなところ?」
「いい匂いがして明るいところ」
「王子さまもいる?」
「そうですね。真っ白なシーツの向こうからやってくるのかも」

 シーツがはためく度に、明るく影が揺れる。こうしてシーツの光と影の間を歩いていると、異世界への扉に通じているような気がする。実際に異世界に行けたことなどないけれど。

 でも、エルザさまの16歳の誕生日の折の大園遊会。あれは、とても本当のことと思えないほど素晴らしかった。求婚者の方々のきらきらしいこと。あんなに魅力的な殿方たちに求婚されるなんて。あのお小さかった姫さまが……。パールは誇らしい気持ちでいっぱいになった。姫さまのお側についていたせいで、私まで皆様とお話する機会があった。上がってしまって、ろくに言葉が出てこなかったけれど……。

 小さな頃あこがれてたおとぎ話は、こんな形で実現したのかも。おとぎ話の主役になるのは、私には似合わない。お姫さまのおつき、おとぎ話の傍観者。それでいいわ。そうしたら、上がってしまって恥ずかしい思いをすることもない。

 でも……アルさま。何かと私に話しかけてくださるけれど。姫さまが何か、頼んでくださったのかしら。でも、お会いする度にうろたえてしまって、ろくにお返事ができなくて、申し訳ない気持ちでいっぱいになる。


 雲の陰に隠れていたお日様が顔を出した。まぶしい。シーツの白さに目を細める。
 私のおとぎ話は、これで十分だわ。シーツの王国のお姫さま。いい香りとまぶしさが、この国の宝。手に取れない宝。だから、誰にも奪われない。

 シーツに影が差した。あら? でも太陽は出ているのに?
 ひもが揺れた。シーツの間から、かがんでたんぽぽのような頭が現れた。金色のような、銀色のような、ふわっと明るい髪。見ただけで心がぱっと明るくなってしまう。

「アルさま!」
「こんにちは、パール。”さま”はやめてくれないかな。何度も頼んだろう? 僕は王様でも大賢人でもないんだから」
 髪の色そのままに、明るく人懐こく笑いかけてくる。
「ああ……失礼いたしました。あ……あ、あ、あ、アル!」
 名前を敬称抜きで呼ぶだけで、真っ赤になってしまう。
「エルザに、君が裏庭にいるだろうと聞いたんだ。しばらく、君を貸してもらった」
「貸して? 私を?」
「うん。君に会いに来た。今日は時間があるんでしょう?」
「ええ」
 パールはぽおっとして、目が回りそうだ。
「あそこに座りませんか?」


 アルは木の下のベンチに、パールを誘った。パールは、厨房からお茶をもらってきて淹れると、アルに勧めた。
「ああ、うまい。カルミノのお茶っておいしいよね」
 姫さま達にお出しするお茶じゃない。自分たち使用人が飲んでいるお茶だ。でも、アルはうれしそうに飲み干して、お替りをもらった。
「よかった。君に会えて」
 木のベンチにくつろいで、アルがにこにこしている。
「ロードを君に紹介してもらったでしょう? 御礼をしたいと思っていたんです」
「御礼だなんて……弟に初仕事をいただいて……私こそ感謝しているんです」
「妹もクロイツも、ちょっと世間離れした連中でね、都の宝飾店でできあがった指輪を買うのは、何だかそぐわない感じがしたんだよ。だから、自分で鉱脈から原石を見つけて、友人に加工してもらう……そういう温かいものが作りたかったんだ」

 パールはふっと笑顔を見せた。
「アルの妹さんは、幸せですね」
「ロードも幸せだと思うよ。君みたいな姉さんがいて」
 アルが微笑み返す。
「この間君たち2人を見ていて、何だかうれしかった」
 それから、ポケットをごそごそしだした。
「実は今朝、またロードのところに寄って来たんです。あの工房に水車で動かす大きな砥石があったでしょう? あれで、磨いて来たんです」

   くしゃくしゃのハンカチに包んでいたものを、パールの手に乗せた。ちょうどパールの指の関節2つ分くらいの楕円形の白い石だった。
「イドラ特産のひすいです。川に落ちているときは表面がざらざらだから、砥石で色が見えるところまで研磨させてもらったんです」
「でもロードが、あの砥石は危険だから、慣れるまで何度もケガしたって……」
 そこまで言って、初めてパールはアルの指のケガに気がついた。右手の親指と中指、左手の親指と人差し指に包帯が巻いてある。
「まさか、砥石でケガを……。ああ、こんないい加減な包帯の巻き方……ロードがやったんでしょう? お待ちください」
   パールは城の方に駆けて行ったと思うと、あっという間に薬箱を持って戻ってきた。
「何てこと……ああ、消毒もちゃんとしていないんでしょう? こんな……爪も削れてしまって……痛そう……痛かったでしょう? 本当に……どうしてこんな……」
 汚れた包帯を解くと、傷口をきれいにして消毒をした。そうして、手際よく新しい包帯を巻いた。
「さあ、できた。今日は濡らさないようにしてくださいね」
「はい」
 アルは、パールの迫力に押されてしまった。パールが、アルの前で気後れを感じなかったのは初めてだ。恥ずかしい気持ちが、ケガを見て吹っ飛んでしまったのだ。

 我に返ったパールが、アルを見上げて目を丸くしている。アルは笑い出してしまった。
「俺も、パールの弟になったみたいだな」
「ごめんなさい……つい」
「うれしかった。今のは、俺を心配してしかりつけてくれたんだよね?」
 パールは真っ赤になった。
「ちゃんと君の言うことを聞く。濡らさないようにします。だから、頼みを聞いてくれるかな?」
「頼み?」
 アルは、2杯めのお茶も飲み干して空っぽの白磁の茶碗をパールに差し出した。
「これに水を汲んで来てくれませんか?」
 訝しく思いながらも、パールは井戸の冷たい水を汲んで来た。よっぽどノドが乾いていらっしゃるのかしら? 熱いお茶よりも冷たい水を飲みたいのかもしれない。
「ありがとう。じゃあ、この水に、さっきの石を入れてみて下さい」
 さらに怪訝な顔で、パールはぽちゃんと石を入れた。

 はっきりしない白っぽい石の色が変わった。水に濡れた石の中心に、鮮やかな緑が表れた。中心の緑から周辺の白へと、柔らかなグラデーションになっている。透明感のあるやさしい色だった。
「……きれい……」
「ひすいは水を好む石なんだそうです。だから時々、こうやって水に入れてやってください。それにね、この石には効用がある」
「効用?」
「ひすいはね、”握薬”といって手に握ると、気持ちが穏やかになってリラックスできるんです。君って、緊張しやすそうだから」
 パールがまた赤くなった。
「寝る前にしばらく握って、気持ちがぽわんと温かくなったら、石を水に入れてやればいい。石が吸い取った君のストレスは、全部水に溶けてしまうから」

 パールはうつむいて、水の中のひすいを見つめていた。その目に涙が浮かんで、ぽたんと水に落ちた。
「パール?」
「そんな……私のために……私のリラックスだとかストレスだとか……そんなことのために、ケガをなさって……」
「そんなことじゃないよ」
「だって、私なんてそんなにしていただく価値はないのに」
 私はお姫さまじゃない。おとぎの国の住人じゃない。いつか冷める夢なら、見ない方がいい。
「イドラの川の中でこの石を見つけた時、やっぱり水に濡れて鮮やかな色をしていた。透明感のある白の中に緑が透けて見えて、君のことを思い出した。”パール”という君の名前にぴったりだと思ったんだよ」
 パールはまだ、うつむいたままだった。
「泣かせたかったわけじゃない。君の笑顔が見たかっただけだ。パール。俺の欲しい言葉はひとつだけだよ」
 まだうるんだ瞳のまま、パールは顔を上げた。そして微笑むと静かに言った。
「ありがとう、アル」

 アルも微笑んだ。
「うん。その笑顔のためなら、あと6本の指を削ってもいい」
「ケガしないで下さい。ちゃんと練習してください」
「うん。ロードにも不器用だってあきれられたんだ。今度はもっと上手に磨くよ」
「私はこれで十分。すごくうれしいです。やさしい白と緑で……まるでキャベツみたい」
 それからたっぷり3分間、アルは爆笑していた。笑われて、パールはふくれてしまった。
 

 それ以来、アルはパールに会う度にからかう。
「こんにちは、パール。君のキャベツは元気?」
 パールはツン、として答える。
「元気ですわ、ありがとう。エルザさまにいただいたローマン・グラスの薄緑のカップが気に入ったみたいですよ」
「へえ。ずいぶん贅沢なうちをもらったんだな、君のキャベツくんは」
「だって、大事なものですもの」

 アルは次第に腕を上げて、水に入れなくても鮮やかな色が見えるように、ひすいの表面をなめらかに磨くことができるようになった。今日はレタスくらいに濃い緑のひすいを2粒、きれいなカボションに磨き上げた。これはロードに金具をつけてもらって、パールのクリスマス・プレゼントにするつもり。
 驚くだろうか。でも今度は怒らないでくれるだろう。だって、指は10本とも無傷なんだから。