『Calling』(上)





 





 青谷から南の集落地に戻った後、診療所の横にテントが2つ増設された。薬草の乾燥と処理をするためのスペースだ。クロイツはイドリアンに頼んで、そのテントの一隅に自分の寝床を作ってもらった。

「これで、診察時間の後も手伝えるでしょ?」
「でも、それじゃあ休息にならないわ」
「それは先生も同じでしょう? 大丈夫。くたびれたら、ちゃんと言って休ませてもらいますから」

 夏の薬狩りの後、秋の薬狩りもある。その他にも、冬までに何度か季節季節の薬草を採取して、早春に緑十字の本部に納めるのだ。乾燥し、リストを作り、粉末にしたり、葉を撚ったり、ものによっては煮出してエキスを作る。早春まで、それらの作業に追われることになる。昼間は、スオミやメドゥーラの弟子たちが入れ替わり立ち替わり手伝いに来ている。集落地の女達も手伝いに来てくれる。

 夕飯を食べながら、2人でリストを整理しながら、スオミとクロイツはお互いのことをぽつりぽつりと話すようになった。親に縁がないところは、2人とも共通している。でもクロイツの目からみると、スオミは苦労した割に世間知らずというか、素直過ぎるというか、警戒心が無さ過ぎるようにみえる。

「お父さんと死に別れてから、寂しい思いだとかつらい思いをしたこともあったでしょ?」
 クロイツは追求してみた。
「つらい思い……」
 スオミは首をかしげて考え込んでしまった。かなり長い間腕組みした挙句、首を横に振った。
「思い出せないわ。いつも周りにたくさん人がいて、過保護なくらい世話してくれたし、キジロー父さんの養女になってからは、教育も十二分に受けさせてもらったし……もちろんものすごく可愛がってもらったし」
 クロイツは生前のキジローには会ったことないが、ずっと親代わりだったメドゥーラやミヅチたちがいかにスオミをかわいがっているかは、よくわかっていた。みなこっそり、クロイツに釘を差して来るからだ。

 なかでも青谷の近くの泉に住むヤトというミヅチには、薬狩りの間、何度か探りを入れられた。
「スオミはな、今まで悪い男に会ったことないんだ」
 ヤトは幼いスオミを育てる間、いつも取っていたという人型で、クロイツをにらみつける。
「ええと、それで俺が悪い男だとおっしゃりたいわけですか?」
 波打つ長い黒髪を垂らした長身の美丈夫に、クロイツはひるまず問い返した。深い青い双眸。先生の男の基準がこの姿だとすると、俺は随分苦戦しそうだ。
「バカもん。お前が悪い男だったら側に置いておくものか。だが、お前がこれから悪い男になる可能性はないだろうな、と言っているのだ」
「そんなこと、約束できませんよ。俺がいい男か悪い男か、判断するのは俺じゃないでしょう?」
 クロイツは正直に言った。
「でも、俺は先生が好きです。尊敬してます。側にいて支えていけたら、と本気で思っています」
 誠実な言葉に、ヤトは矛先を収めた。
「ただ、俺が勝手にそう思っているだけで、先生には伝えてないんです。ちゃんと使える男になってから、と思って」
 ついでに、スオミに自分の気持ちを気づいてもらうには、まだかなり時間が必要だと思っていた。あの人はちょっと……いや、かなりそういうことに鈍そうだから。クロイツのため息に気づいて、ヤトもため息をついた。
「そうなんだよ。あの子はまた、そういうことにかなり鈍いんだよ」
 忘れてた。ミヅチっていうのは、人の心が読めるんだった。というか、先生もそうだっけ。え、ということは……
「大丈夫。あの子はよっぽどのことがない限り、人の思念波を読んだりしない。というか、あの年齢の女性なら、テレパシーなどなくても気付くはずの男の下心に、あの子は気付かない」
 2人の男は、はあーっと深いため息をついた。
「まあ、今のところ、お前以外は周囲に危ない男はいないわけだ」
「悪い男から守る人間もね」
 クロイツはちょっと挑戦的に答えた。
「仕方ない。もうしばらく、お前にスオミを任せておこう。もうすぐ、”悪い男”が来る」
「”悪い男”?」
「秋にな。まあ、その時が来ればわかる。それまでにせいぜい、スオミを”悪い男”から守れる立場になれるようがんばれよ」
 ヤトに励まされたので、クロイツはかなり驚いた。
「勘違いするな。お前を認めたわけではないぞ。ただチャンスをやっただけだ。スオミが随分お前を信頼しているからな」
 クロイツは、ヤトに最敬礼した。
「ありがとうございました。がんばりますっ」
「わかってるだろうが、あの子は誰でも信用するんだ。裏切るんじゃないぞ?」
 齢3000年余を重ねるはずの水神の、あまりにも人間臭いセリフに、クロイツは微笑を隠せなかった。



 その朝もいい天気だった。
「よかった。外に草を広げましょう。一気に乾いてくれるわ」
 朝食の席で、スオミは明るい顔で卵を落としたお粥を食べていた。天窓から差し込む朝日を浴びて、くるくると渦巻く銀色の髪が後輪のように輝いている。
 また、一団と悩みのなさそうな笑顔で……。俺はまた、昨夜も眠れなかったというのに。
「クロイツくん、何だか疲れの取れていない顔しているわ。大丈夫?」
 眠れない理由を説明できるわけない。
「薬草の名前と効用を覚えようと、つい夜なべをしちゃって……すみません」
「朝ご飯の後、すこし横になったら?」
 いえ、眠れるわけないっす。そんな顔でのぞき込まれて。

 突然、ことんとスオミが茶碗を置いた。中腰になって、戸口の方を振り向いたと思うと、何かに注意を向けている。クロイツには何も聴こえない。
「先生?」
「クロイツくん、一緒に来て」
 緊迫した声でそう言うと、立ち上がってクロイツの腕に手をかけた。
「一緒ってどこに?」
 答えを聞く間もなく、台所の風景が消えた。

 そこは集落地のはずれのクリークだった。
 ほんの一瞬だった。一瞬で、診療所からここまで。だが、感嘆している暇などない。クリークの中に子供の姿がある。ぐったりして動かない。
「スイ!」
 スオミは冷たい水も早い流れもかまわず、クリークに飛び込んだ。
「クロイツくん、ナイフ持ってる?」
「持ってます!」
「身体を持ち上げるから、ベルトを切って!」
 以前、クルミの殻をのどに詰まらせて運び込まれて来た少年だ。クリークにうつぶせに顔を突っ込んで、流れに翻弄されている。ベルトが岸の杭に引っかかって、抜け出すこともできないらしい。
 ナイフでベルトを切ると、クロイツはスオミからぐったりした少年の身体を受け取った。
「息してない……」
「水飲んでる。クロイツくん、逆さに吊るして、胸をとんとんと叩いて」
 指示を出して、クリークから自分の身体を引き上げる。全身ずぶ濡れで、顔が真っ青だ。
「あ、少し水が出た。よし、地面に寝かせて?」
 スオミが人工呼吸を始めた。少年のまぶたはぴくとも開かない。くるみの時は、すぐに元気になって走り出したのに。
「クロイツくん、この子のご両親、呼んできて! 左から3番目の青い掛け布のテント!」
「はいっ」

     両親が駆け付けても、スイの息は戻らなかった。まぶたが落ち窪んで、ぞっとするほど青い顔をしている。
「先生、俺、替わります」
 クロイツが慣れた手つきで人工呼吸を始める。
「お父さんもやり方を覚えてください。長丁場になるかも。私は呼びに行きます」
 スオミは少年の頭のところにひざまづくと、身体を屈めて、自分の額を少年の額にぴたりをつけた。
「人工呼吸を続けて、絶対に止めないで。お母さん、坊やに呼びかけて。この子が戻りたくなるようなことを何でも言ってあげて」
 母親は、すぐさま、少年の好物の食べ物を列挙し始めたが、クロイツには笑う余裕はなかった。
「呼びに行く?」
 スイの胸を押しながら、クロイツは聞いた。
「魂を呼びに行ったんだ、先生は」
 スイの父親が青い顔で説明する。
「呼びに……ってどこへ?」
「川の向こうへ」