『標野行き』





 



 青谷の「薬狩り」はクロイツの想像以上に大掛かりな行事だった。ちょっとした夏祭りの様相を呈している。
 何といっても、脊梁山脈周辺の9つの集落が総出なのだ。サクヤがバザールと温室ドームでの診察ができなくなって以来、スオミとスオミの師匠のメドゥーラがカバーしている。メドゥーラが北の2つの集落。スオミは順番に残りの集落を移動しながら診療しているのだ。どこに診療所を駐在していようが、急患は周囲の集落から運び込まれてくる。ミズチのイズミを通じて、地球の裏側から送られてくる患者もいる。というわけで、2人の薬師のために、一肌脱ぎたいものに事欠かないのだ。

 ルパを夏の遊牧地に移動して、冬から初春にかけた生まれた仔の世話も一段落。2歳から3歳に育った若仔を調教代わりに乗りこなして、イドリアンたちが続々と青谷に望む台地に到着している。男達はテントの設営、女たちは竃の用意。湧水の周りをぬかるみにしないよう、石を積みなおして水汲み場をつくる。
 子供たちはすぐに草原に散って、夏の恵みを受け取る。ブルーベリー、ラズベリー、ハスカップ、コケモモ、スグリ、ヤマモモ、クワの実・・・。かごにいっぱいにすると、鍋に空けて、またすぐに次の収穫に行く。今夜のデザート以外は、全部、すぐに鍋で煮て朝食のパンケーキやワッフルにつけるソースにするのだ。摘みながら、かごに入れるのと、口に入れるのは半々くらい。でも大丈夫。どっさりなっているのだから。

 野営地ができると、男たちは放牧地に帰っていったが、どうせ夕方には戻ってくる。女子供がみんなここにいるからだ。みんなでどっさり食事を作って、飲んで食べて踊る。


 メドゥーラとスオミは、薬師と泉守りの修行をしている子供たちを集めて地図を見せた。青谷の薬狩りは生態調査も兼ねているからだ。
 青谷は30年ほど前、深い森だったところだ。そこに隕石が落ちてできたクレーターなのである。
「隕石!」
 クロイツは驚いた。そんなものを見るのは初めてだ。しかし台地から見回しても、石らしいものは見当たらない。
「隕石本体は上空で燃え尽きたが、熱風で森が焼けて、ここはえぐれた裸の窪地になってしまった。あそこから、ここまで」
 メドゥーラは大雑把に彼方に見える岩山と、すぐ後ろにそびえる「3つ子の巨人」と呼ばれる3つの鋭いピークをもつ山脈の間に手を振った。見渡す限りのきれいな楕円形の浅い窪地が、焼け尽くされた、ということか。
「はい」
 少女がクロイツの手に、暗緑色のガラスの欠片を載せた。
「それが、星の降った証拠なの」
 大気の摩擦で燃えた石が、台地を溶かした証。
「でも、そのお陰でここには植物の種類が多いんだよ。大地が痛手から回復しようと、奇跡を起こしたんだろうね」
 それ以来、メドゥーラはこの青谷にどのような植物が生育しているか、詳細に記録をつけてきた。この数年はスオミやアカネも手伝って、論文にまとめている。
「流れる星は、厄災だが、同時に恵みでもあるんだ」

 クロイツは地図係りに任命された。
「お兄さんはここは初めてなんだから、まずはフィールドの概要を覚えてもらわないとね」
 地図には碁盤の目状に線が引かれ、それぞれのエリアに記号で名前がついていた。
「どこにどんな薬草が生えていたか、記録しておくれ。子供たちは、採集袋に採った場所の札をつけてくるから」
 続々と届く採集袋の中身を、女たちが熟練した目で改めて、草の名前と標本数をリストアップしていく。それを台帳に整理するのが、クロイツの役目なのだ。薬草はタグをつけられ、すぐに日陰の風通しのいいテントで陰干しされる。
「ひゃあ、責任重大だ。草の名前を覚えるだけでも大変すね」
「大丈夫。お兄さんなら、すぐ覚えるさ」
 どうやら、クロイツはメドゥーラのお眼鏡にかなったようだ。


 スオミはフィールドで子供たちに指示を出しつつ、ちょくちょく本部に戻ってクロイツの手伝いをした。珍しい植物が見つかったときは、クロイツを呼んで、採集する前に見せたりもした。
 その淡い青紫の花は、岩肌に咲いていた。ほとんど土もついていないだろうに、ベルの形の可憐な花を風に揺らして咲き誇っている。
「へえ、イワギキョウ・・・なるほど」
 クロイツは律儀にその名前をノートに書き込んだ。
「で、これは何に効く薬なんですか?」とスオミに聞いた。
「あ、えーと、薬ではないわ」
 スオミが顔を赤くした。クロイツはちょっとぽかんとした。
「薬じゃない?」
「そうなの。あの、きれいな花で……私の好きな花だったから、あなたにも見せたかっただけなの」
 ややあって、クロイツは笑い出してしまった。
「本当だ。きれいな花ですね。先生の眼と同じ色だ」
 スオミはさらに赤くなった。
「うん。きれいです」
 その賛辞は、花のものか、スオミのものか。
「俺も好きだな」
 クロイツの目はまっすぐに、スオミを見つめている。スオミは落ち着かなくなって、慌てて隣の黄色い花を指した。
「これはアルニカ。とてもいい薬になるのよ? これから根茎が育つから、秋に採取するの」
「へえ。これもかわいい花ですね」
 花のことを言っているとわかっているのに、スオミは何だか不安になってしまった。みんなから離れて、2人だけで岩陰にいる。これって安全なの?
「あ、じゃあ、私、みんなのところに戻るわね」
 歩き出そうとしたスオミの腕を、クロイツが捕まえる。ぐいっと引かれて、パニックに陥りそうになった。
「待ってください」
 言葉が出て来ない。怖い。顔がすぐ側にある。
「地図を置いていってください。俺、まだエリア名が頭に入ってないから」
 スオミは我に返った。
「あ、ごめんなさい。はい。じゃ、戻るわね」
 そそくさと斜面を下りながら、自分の気持ちに困惑する。やんなっちゃう。これじゃあ、まるで13歳の女の子じゃないの。



 去年の秋の薬狩りの時のはなかった植物がいくつか見つかった。中でも、イドラ全体を探しても貴重な種類が2つ見つかって、アカネとルナは興奮気味だった。
「へえ、ミズチドリ。私、書物でしか見たことないわ」
「私も初めて見ます。かわいい」
「こんなに小さいのに、ちゃんと蘭の花の形をしてる。ケナゲな感じ」
 小指の爪ほどの透明感のある白い花が、すっと伸びた茎にずらりと並んでいる。なるほど、小さな豆粒サイズのチドリが空に舞っているような形の花なのだ。

 ルナは、サクヤの生前、イドラの緑について頼まれていたらしい。サクヤが志半ばであきらめた植林や緑化のデータを引き継いで、研究を進めている。
 青谷が、不毛な焦土から豊かな緑野に回復していく様は、イドラ全体の緑化の実験場と言える。裸の乾燥地に強い植物と、木陰が好きな植物があるのだ。ルナはメドゥーラに青谷の記録を見せてもらいながら、砂漠に何を植えるべきか話し合った。

 メドゥーラは、この年若い魔女に一目置いているようだ。学んできた分野は違う。言葉も文法も理屈も違う。でも、2人の間で、話の通りは早かった。まだまだ長生きするつもりであったが、それでも50年後のイドラに自分はいない。イドラの未来を、この魔女に託すことができる。心から有難かった。



 夜は宴会になった。
 子牛を2匹つぶして、1匹はシチュー、1匹は焼いて、みんなたらふく食べた。クロイツは、牛を手際よく捌いたので、あっという間に、男達の間で市民権を得た。ということは、周り中から強い酒を注がれる、ということである。
「まあまあ、飲め。このドブロクはうまくできたんだよ」
「へえっ、ちょっと発泡してるんすね。うん、うまい」
「兄ちゃん、わかってるねえ。これもイケルぞ。去年のサルナシ酒だ」
「あっ、甘い。飲みやすいな」
「好きな女には、これを飲ませりゃ、一発だ」
 酔っ払いの間にどっと笑い声が上がる。
「兄ちゃんも、ここで嫁をもらって、ここに暮らせばいい」
「そうっすねえ。そうしたいな」
 クロイツは口に出してみて、自分が心からそうしたいと思っていることに気がついた。
「ここはいい土地だ。荒地だが自由だ。どんな大国にも支配されない。俺たちの場所だ」
 男たちの言葉には、自分の土地への誇りに満ちている。
「大地が生きている場所なんだ。ここでは子供がたくましく育つ」
 俺はこれほどの愛情を、自分の国に感じたことがあっただろうか。

 本当だ。ここに来て以来、毎日の生活が、水を飲んで、パンを食べて、服を着る、そんな当たり前のことが、ひとつひとつ、どんなに大事か実感できるようになった。イドラでの生活は、まさに地面に足がついている。大地の恵みを受けて、生きていると信じることができる。
「兄ちゃん、ずっとイドラにいなよ」
 クロイツは視線を上げて、ランプの側でルナと話し込んでいるスオミを見つめた。
「ええ。できれば、そうしたいな。俺もイドラが好きです」


 酒盛りの後、酔いつぶれた者や夜通し飲みたい年寄りを残して、ほとんどのイドリアンは集落地に戻った。
 そして、本部にしている天幕にはスオミとクロイツだけが残った。おき火で草を乾燥させながら、薬草の標本と野営地を守るわけだ。クロイツは本部用の天幕に、スオミはその隣に自分用の天幕を作ってそこで寝る予定だ。イドリアンが木枠に干し草を詰めたクッションと、るぱの毛で織った毛布、ふかふかのキルトをかけて、居心地のいいベッドをしつらえてくれていた。

 青谷を見渡せるテーブルにランプを置いて、2人は今日のリストを台帳に整理していた。去年と地形が変わったところ、植生が大きく変わったエリア、新しく見つかった種類など、ページを新しくして解説をつける。
 こうしてひとつの地図と台帳に2人してのぞき込んでいて、気がついたことがある。スオミは、確かにクロイツの言葉に赤面したりする。腕をつかまれるとうろたえたりもする。だが、本能的な恐怖や嫌悪感、警戒心といったものは皆無らしい。
 仕事に集中しているせいもあるのだろう。手が触れたり、肩が重なり合ったり、あるいは標本を積んだ大きな木箱をスオミが持ち上げようとして、よろめいたのをクロイツが後ろから支えたり。そんなときでも、スオミは反射的に身を引いたりしないで、クロイツに重心を任せている。信頼されていることを、喜ぶべきなんだろうか?

 何だか、台帳にずらっと並ぶ花の名前に自分が負けたような気がする。つまり、俺ばっかりが意識しているわけだ。2人きりの職場で、こんな風に野営したりする生活では、ぎくしゃくしたりするよりずっと有難いはずだ。何より、スオミを怖がらせたくない。でも、クロイツは少し寂しかった。少しは俺の気持ちにも気づいて欲しい。

 そう、こういう時だよ。喜んでいいやら、困るやら、複雑な気持ちになってしまう。早朝から責任者として走り回っていたスオミは、疲れ切っていたのだろう。台帳をのぞきながらうつらうつらし始めて、やがてクロイツの肩にもたれて眠り込んでしまった。クロイツはため息をつく。スオミが後ろにひっくり返らないように、背中に腕を回してそっと支えてやる。そうして、スオミの寝息を感じながら、片手で台帳を最後まで仕上げた。

 この人、寝てるときは本当に子供みたいなんだよな。またため息をついて、スオミを抱き上げると天幕に運んだ。寝床に入れて、毛布とキルトをかけてやる。
「おやすみ」
 そういって、まるで小さな弟を寝かしつけていた時の気持ちで、何気なく頬にキスを落とした。その瞬間、我に返った。

   俺、今、何をした?

 スオミは寝たまま、ふにっと笑った。
「お休み。父さん」

 クロイツは心底がっかりした。何だかいろいろなものに負けているな、俺。
 まあ、いいや。嫌われていないだけで、上々だ。とりあえず、信頼されて支えていける立場にある。それでいい。こうして、赤ん坊みたいな寝顔が見れるのも、役得と言えるかもしれない。

 いつものように、スオミが胎児のポーズで丸まって眠るまで、でたらめな子守唄を歌ってやった。ああ、これで今晩も眠れない。天幕から出て、星空を見上げる。へえ、ここから見ると、さそり座が低いんだな。あ、もうアンドロメダの見える季節なのか。
 クロイツは、スオミの小さな天幕を振り返る。こちらの美女は、いったい何に囚われているのやら。俺はこの美女を救う英雄になれるのかね。ため息、ひとつ。

 さあ、今晩も女神の夢を見ながら、浅い眠りをまどろむしかない。それはけっこう、ぜいたくな体験かもしれない。クロイツは天幕に引っ込んだ。東の空低く、ペルセウス座の小さな星々が瞬いていた。