『Be Ambitious, Boys!』





 



 夏の早朝独特のひんやりしっとりした空気を胸いっぱいに吸い込んだ。日中の暑さは厳しいが、朝は過ごし易い。るぱも機嫌がいい。もっとも大人しいるぱは、綱を着けて引き出されるといつも上機嫌でついて来るのだが。
 クロイツはこのところ、毎朝るぱに乗る練習をしている。南北に走る1本の街道以外、馬車で通れる道のないイドラでは、るぱが一番勝手のいい交通手段なのだ。大人しいのですぐ乗れたのだが、岩場や藪の中をガスガス歩くのが面白くて、毎朝難易度を上げて障害物に挑戦するようになった。

 エクルーと妹が住んでいる温室の側まで来たとき、温室の西側の大地にスオミがいるのを見つけた。声をかけようと手を上げかけて、クロイツはすんでのところで声を飲み込んだ。

 泣いている? いや、泣いてはいない。でも泣きそうにみえた。くちびるを噛みしめて、両手のこぶしを握り合わせている。ああ、そうか。あそこにスオミの養父とその奥さんのお墓があると言っていたっけ。お墓参りというわけか。こんなところまで。診療所からここまで、るぱでは1時間以上かかるだろうに。診察時間の前に来ているわけだ。
 スオミは大地の端の白っぽい岩の前でうつむいていた。何か話しているようだ。墓に向かって語りかけているのか? アルやエクルーと兄弟らしいが、本当の親とは小さい頃死に別れたと聞いた。養父と仲が良かったんだろうか。


 あの晩、疲れきって待合室で気を失うように倒れていたスオミを抱き上げたとき、小さな声を聞いた。
『父さん』
 確かにそう聞こえた。亡くなった父親に呼びかけたにしては、ずいぶん深い響きがあった。クロイツがイドラに来る少し前に亡くなったという、キジローとサクヤについての話はあんまり会話の端に上らなかった。まだ気軽に話題にするには、失った傷が生々しいのだろう。それにしても……日中見かけるスオミの表情は明るすぎた。仕事にも熱心に取り組んでいるし、誰に対しても親切だ。だがクロイツには、それがムリをしているように見えて、時々、痛々しかった。



 ひずめの音でジャマをしないように、るぱから下りてそっと立ち去ろうとしたのに、すぐに後ろから声をかけられた。
「クロイツくん、お早う。今朝も特訓なの?」
 スオミはもう、いつもの先生モードの笑顔になっていた。
「朝ごはん、食べた? よかったら一緒にどう? エクルー特製のツナと卵のクレープよ」
「あ、いただきます。うまそうっすね」
「弟の料理はプロ並よ? だから、ここでは喰いっぷりのいい人はいつでも歓迎されるの」
 朝日がまぶしく差し込む温室に招き入れられた。テーブルにしつらえたガラスのコップに、スオミが摘んできたばかりの野花を活ける。
「どうぞ。クレープが焼けるまで、コーヒーを飲んでいて。スコーンも焼きたてなのよ?」
 スオミはクロイツにイスを勧めて、自分は台所に立っているエクルーに来客を告げに言った。すぐにエプロン姿のエクルーがターナーを片手にひょい、と顔を出した。
「いらっしゃい。ツナ卵とハムレタス、どっちがいい? それとも、両方?」
「両方!」
「へへえ、承りました。スオミ、クロッテッド・クリーム、持って行ってやって。これ、自信作だから」
「あなた、自信作じゃないものなんてあるの?」
「だってプロだもん」
「何のプロなんですか? エクルーさん?」
「コックさん、保父さん、時々、物理学者」
「楽しそうな職業だこと」
 明るい会話がこぼれて来る。

 テーブルの横では、ロボット相手にキリカが掴まり立ちの練習をしていた。
「きりちゃん、おはよう」
「ろいさー、はよーです」
「えらいなー。立ってるじゃないか」
「たっちとあんよですー」
 キリカはクロイツの手をしっかり握って、よたよたと3歩歩くと、自分でぱちぱち手を叩いた。
「えらいえらい」
「えやいえやい」
 元気に歩いているところを、両親は見たかっただろうな、と思うとちょっと鼻の奥がつんと痛くなった。
「ろいさー、ないないだめよー」
「ん?」
「きりちゃもるーちゃも、みんなにこにこです。ととしゃとかかしゃもにこにこです」
 クロイツは軽くショックを受けた。1歳の乳児に諭されてしまった。死んだ両親に心配をかけないように、この兄弟は明るく暮らしているというのだ。でも、1歳の子供にそれは酷じゃないのか? いや、16歳だろうと、29歳だろうと、親が死んだ時くらい、泣いてもいいだろうに。


「はい、お待たせ。特製クレープです」
 そば粉のぱりぱりしたクレープは絶品だった。絞りたてのオレンジ・ジュースも新鮮なクロッテッド・クリームもおいしかった。なのに、クロイツは胸が痛かった。キリカもエクルーもスオミもにこにこしながら、涙を隠している。途切れずに明るい会話が交わされているのに、まぶしいほど朝日が射しているのに、気持ちが重い。
「クロイツ、今度、夜にも来てよ」
 エクルーが明るく言った。
「キリカも喜ぶから」
 その招待の言葉に切実なものを感じた。2人だけの夜は長くて暗いのだろう。
「メシ時に来てもいいのか?」
 エクルーがにやっとした。
「もちろん。何が好き? パエリアなんかどうだ?」
「好物だ。作るとき教えてくれ」

「じゃあ、また後で、診療所でね」
 スオミににこやかに見送られて、クロイツは温室を後にした。
 大きなため息がこぼれた。まだこの家族は、両親を失ったことを克服していない。当たり前だ。まだ3ヵ月前のことなのだ。いくらエクルーがジンの下で働いていて、経済的に心配がないとはいえ、いくら友人がたくさんいて、物心ともにフォローしているとはいえ、16歳の少年が両親の代わりになれるわけない。


 その日の診察時間も終わるという頃、男の子が一人運び込まれて来た。切り傷が膿んで、すねがぱんぱんに腫れている。どこが足首かわからないほどだ。
「あらら、ケガをずいぶん長い間放っておいたのね?」
「強情な子でして。手当てさせてくれないんですよ」
 父親はほとほと困り果てている。膿みのせいで発熱していて、吐き気さえ訴えているくせに、傷に触らせようとしない。
「困ったわねえ。クロイツくん、膿んだ足をそのままにするとどうなるのか、この男の子に教えてあげてください」
「わかりました、先生」
 クロイツはにやりとした。
「坊主。ケガを我慢したのはえらかったな。でも何でこんなに腫れてるかわかるか?」
「ケガしたからだろ」
 男の子は、隙を見せまいとぎろっとにらみ返す。
「そうだ。そのケガから悪いばい菌が入った。お前の血も肉もごちそうだ。このふくらんでるのは、全部、ごちそうを食べて増えたばい菌なんだ。パーティーの真っ最中というわけだな」
 子供の顔が青くなった。
「おまえ、今、脇の下とか耳の下が痛くないか?」
 そう言われると痛い気がする。
「熱が出てふらふらするだろ?」
 確かに足元がふわふわする。
「それはな、ばい菌が増えすぎて、新しいごちそう求めて身体中を回り始めたからだ。このまま放っとくとどうなると思う?」
「どうなるんだ?」
 子供の声は震えていた。
「見かけ上はお前のままだが、中身は全部悪い菌に乗っ取られるんだ。お父さんもお母さんも気付かずに、お前をかわいがる。でもお前の心はもう食われちまって、ばい菌人間になってるんだ。そして、次の獲物を探す。まずは小さい妹や弟、次はお婆さん。順番に家族全部、ばい菌が占領しちまうんだ」

 後半は誇張というよりほとんどフィクションだが、効果は十分だった。子供は声を上げて泣き出して、治療をしてくれ、と頼んだ。ほとんどメスを当てる必要もないほどだった。膿を搾り出して消毒すると、あっという間に症状が改善した。普通はそのまま処分するのだが、教育のために搾り出した恐ろしげな色の膿を子供に見せてやった。
「これがばい菌かあ」
「もうやっつけたから大丈夫」
 クロイツがにやっとした。
「追い出してやったね」
「がんばったな。お前、家族を守ったぞ」
 帰り道、坊やは決心した。俺も将来、医者になって悪いばい菌をやっつけるんだ。

 スオミはくすくす笑っていた。
「あなたが来てから、子供の治療が楽だわ」
「そうっすか?」
「クロイツくんはいい医者になると思う」
 実際、覚えは早いし、勘もいいし、クロイツが来てからスオミは仕事がぐっと楽になった。人のあしらいはスオミよりうまいくらいだ。患者や患者の家族を安心させるのがうまい。すでにすっかり常連客たちの信頼を得ていた。お婆さんたちは、食べっぷりのいいクロイツがお気に入りで、さして用が無くても診療所をのぞいては差し入れを置いていく。おかげで、スオミもお相伴に預かって、毎日昼食の用意が要らないのだった。

「俺、ここに来てもう半月ですけど」
「もうそんなになるかしら」
「先生が診察料をもらってるとこ、見たことがありません」
 スオミが切り分けていた消毒綿から顔を上げた。
「どうやって運営してるんすか? 薬だってタダじゃないでしょ?」
 スオミが笑い出した。バカにしたような笑いでなく、安心させるような温かい笑顔だった。
「ごめんなさい。もっと早く説明すべきだったわ。この診療所の母体は国際緑十字財団なの」
「緑十字」
「そう。薬物の研究開発を目的とする協会。ここは原住民に医療を施しながら、彼らの薬草の知識を学んで、新薬開発のヒントにするための診療所なの。治療費の他にも、薬草を買い上げて運営費を出してくれるのよ?」
「じゃあ、今度青谷に薬草を採りに行くって言ってたのは……」
「そう。もちろん、ここの診療所で使う分もあるけど、運営費のために財団に売る分も採取するの。たくさんの薬師に協力してもらって集めるのよ」

 これまでにも半日とか1日診療所を休んで、2人でイワタケを採りに行ったり、地面の中のキノコを探したりしたことがあった。今度の採取旅行は2泊3日だと聞いて、クロイツはひそかに楽しみにしていたのだが、2人きりというわけではないらしい。しかし、そんな目的があるなら、浮ついているわけにいかない。財源確保のためにがんばらねば。
「あなたは目が早いし、薬草を見る目も確かだわ。頼りにしてるわね」
 そう言われては、張り切らないわけにいかないではないか。

 優秀な学生を見守る教官、といった風情でスオミはクロイツに微笑みかけている。クロイツは養父のことを聞いてみたかったが、飲み込んだ。先生はこの仕事を、精神の支えにしているのだろう。俺がもう少し役に立って本当に支えになれるまで、先生の抱える痛みに気付かない振りをして、黙って隣にいよう。先生が疲れたとき、いつでも手を差し出せるように。