『Baby Morning, Baby Night』





 




「ほぎゃあっほぎゃあっほぎゃあっ」
「生まれた……?」
「生まれたよ! よかったなあ、父ちゃん!」
 クロイツがきつね色のしっぽのイドリアンの背中をばん、と叩いた。
「生まれた・・・ありがとうございます」
 男は半分泣きそうになっている。
「元気な女の子よ? お母さんも元気。おめでとう」
 スオミが布に包まれた赤ん坊を抱いて、テントから出てくると父親にそっと渡した。
「小さい……動いてる……泣いてる」
 男はとうとう泣き出してしまった。
「泣いてる暇ないわよ、お父さん。フィーはしばらく休ませてあげなきゃ。子育てがんばってね」
「はい。がんばりますっ」

 スオミはテントの外で思いっきりのびをした。
「もうすっかり朝ね。眠いでしょう?」
「いや、眠気なんか吹っ飛びました。いいもんすねえ、赤ん坊って」
 クロイツは素直に感想を言った。
「普通はお産くらいで医者が呼ばれることはないんだけどね。イドリアンは子沢山だから、どのうちにも百戦練磨の婆様がいるし、たいてい安産なの。でもフィーはちょっと身体が弱いし、逆子だったから。よかった。無事生まれて」
 朝日の中で清清しい笑顔で笑うスオミを、クロイツはまぶしそうに見ていた。

「クロイツ君、今日はお休みしてね。明日の朝まで休憩」
「えっ、いいっすよ。徹夜の一日や二日、平気ですから。先生はこのまま診療所開けるんでしょ?」
「私は大丈夫。診療所の隣が自分の部屋だから、患者さんのいない時に適当にサボって昼寝するから」
 日中、患者が切れることがないことは、この半月でクロイツにもよくわかっていた。
「2人いれば、交替で休憩できるでしょ? 俺、行きますよ」
「ありがとう。でも大丈夫。医者は休むのも仕事よ。しっかり休んで」
 結局クロイツは、徹夜明けでちょっとハイな感じのスオミに、にこやかに追い出されてしまった。

 宿舎に帰って昼過ぎまで寝たものの、日ごろ規則正しい生活をしているので、昼間にごろごろ寝ていられなかった。といっても、行くところもなく、カシスやアルが働いているラボをのぞきに行った。
「あれ、珍しいな。どうした?」
 すぐにアルが声をかけてきた。
「ははっ、たった半月で助手はクビか? 先生に手を出してぶったたかれたとかだろ。くっくっく」
 カシスが毎度、気に障る笑えないジョークを言う。クロイツが診療所に行き出してから、顔を見る度にスオミとのことをからかってくる。全く笑えない。
「今日は特別休暇です。昨日、徹夜だったもんだから」
「それって、スオミはそのまま働いてるのか」とアルが聞く。
「ええ。俺も出るって言ったんすけど」 クロイツがため息をつく。
「まあ、スオミも強情だからな」
「こういう時、指示に逆らって職場に行くと……やっぱりやばいんですかね」
 クロイツは聞いてみた。アルは一応、義理の兄だからスオミの傾向に詳しいかと思ったのだ。
「そうだなあ。行くとしたら、夕方、診療時間が終わってからだな」
「それじゃ意味ないでしょう」
「いや、仕事中は平気なんだよ、スオミも」
 アルがにっと大きく笑った。
「スオミが心配で見に行ってくれるなら、夕方行ってやってくれ」


 クロイツは半信半疑のまま、夕方まで待った。スオミの差し入れに、とジンがひよこ豆のシチューとそら豆のコロッケを持たせてくれた。
「2人分あるからな。今回は自信作だ」
「えっ、ムトー博士が作ったんですか?」
「うん。今、特訓中なんだ。娘たちが嫁に行っても困らないように仕込まれててな」
こだわらない顔でにぱっと笑う。
「へええ」


 診療所に着いてみると、灯りが消えていた。しかし、スオミの住居スペースにも灯りはない。出かけているのか?
 クロイツがそっと扉を押すと開いた。
「こんばんは。クロイツです。ムトー博士の差し入れを持って来ました」
 ひそめた声で言いながら、そっと足を踏み入れた。暗い待合スペースにソファが並んでいる。一番奥のソファに目をやったとき、そこに壊れた人形のように、くたんとスオミが座っていたので、クロイツは思わず声を上げるところだった。
「……せ、先生?」
 スオミは身じろぎもしない。そこにクロイツがいることにも気付いていないらしい。目は開いているものの、眼の前のものが目に映っていないようだ。

 軍の経験が長かったクロイツにはわかった。気力だけで体力以上の仕事をした後にショック状態のようなものなのだ。手足が冷たくなっている。病室から毛布を持ってきて、肩まですっぽり包んでやった。ケガの治療に我慢した子供にやる飴玉を、ひとつ取り出す。
「先生、飴玉を口に入れますからね。飲み込まないように。ゆっくりしゃぶって」
 口にそっと飴を入れる。
「何か温かいものを作ってきますから」
 普段はつらつとしているスオミが、子供のように隙だらけなので、クロイツは困惑していた。スオミの住居スペースで台所を漁って、ホットレモンにたっぷりはちみつを入れて持ってきた。カップを差し出しても、自分で支えられないようなので、クロイツが少しずつ飲ませてやった。
「大丈夫ですか?熱くないですか?」
 スオミがこくん、とうなづく。
「飲んだら、ぐっすり寝てください」
 また、こくんとうなづく。
 本当に飲み終わると、そのままソファでことんと寝てしまった。クロイツは病室のベッドに運んでやることにした。


 抱き上げたとき、初めてスオミの口から言葉がもれた。寝言みたいなものだ。
「父さん……」
 眉根を寄せて泣き出しそうな顔になっていた。そして、クロイツのシャツをぎゅっと掴むと、胸に顔を埋めてしまった。クロイツは何だかいろいろ湧き上がってしまって、そのまましばらくスオミを抱っこしていた。

 スオミの養父が亡くなったことは聞いていた。クロイツが来る3ヶ月前のことだ。病死だが、家族に囲まれて幸福な臨終だったと聞いた。子供の頃の夢でも見ているのだろうか。

 そっとベッドに寝かせたが、スオミの手はクロイツのシャツを握ったままだった。仕方ないので、スオミの髪をくしゃくしゃなでながら、でたらめな子守唄を歌ってやった。
「大丈夫。ぐっすり眠るまで、ついてますから。もう怖いものは来ませんから」
「……うん」
 スオミは小さくうなづいて、クロイツのシャツを放すと、その手を口元で丸めて3歳児のような顔でため息をついた。それからさらに身体全体を丸めて、胎児のようなポーズになって「んんん」とつぶやいた。

 おいおいおい、先生。だんだん退化してますぜ。でも、明日の朝には、またシャキーンといつもの先生に進化してるんだろう。
 これ以上側についていると、クロイツ自身が”怖いもの”に変化しそうなので、診療所を後にした。



 何だか一日働いたよりも、くたびれた。どうせ、俺のことなんか覚えてないんだろうな。まあいいや。よく寝てたから。明日は元気になってるだろう。クロイツはため息をついた。あ、しまった。ムトー博士の差し入れを食べ損なった。

 ポケットから飴玉をひとつ出して、口に入れた。そのまま、しばらく指をくちびるに当てていた。柔らかいくちびるだったな。また、ため息ひとつ。悩み多き職場だぜ。まあいいや。スリルは嫌いじゃない。明日が楽しみだ。