『天雲の』





 



 
「シュアラの朝はいいな」
 キジローはほとんど重湯といってもいいような、ゆるいおかゆを食べていた。刺激物は胃に障るので、梅干は3分の1個分をカツオ節とねったもの。それでも、久しぶりのごちそうだ。
「本当。この清々しい空気。緑色に染まりそう」
 サクヤは、給仕をしながら、薄くいれたほうじ茶を飲んでいる。
「あんたは食わないのか?」
「後で、果物をいただくわ。いい香りの梨をもって来てくれるって、サクラちゃんが」
「そうか……」
 キジローがベッドの上で座りなおす。サクヤはずれた毛布を、そのお腹にかけ直した。

「なあ……もう十分、療養したよな?」
 キジローは視線を窓の外に向けたまま、静かに言った。
「もう、イドラに帰ってもいいよな?」
 サクヤは何とも答えずに、キジローの次の答えを待った。キジローは遠くを見ている。左手に持った、重湯の碗が落ちそうになって、サクヤはそっと手を添えた。
「もう十分だ」
「キジロー?」
「イドラの……夕焼けが見たい」


 あれから、何度かシュアラとイドラを行ったり来たりしている。シュアラに来れば、身体がラクになるが、根本的な病巣が消えるわけではない。2人がシュアラにいる間も、エクルーがキリカを連れて見舞いに来るから、生活が変わりないと言えば、変わりない。どっちにいても親子4人一緒にいられる。
 キリカは大分しゃべるようになった。最初の言葉は「りー」だったらしい。エクルーがかなり落胆していた。キリカはリィンがお気に入りなのだ。でも次に「るー」と言った。続いて「ねー」。これはアカネのことらしい。アヤメのことは「めー」。両親のことは「ととしゃ」「かかしゃ」と言う。この頃は、突然泣き出すことも無くなって、情緒が落ち着いていた。見舞いに来て、キジローの腕の中で、「ぷうぅ、ととしゃ……」と言いながら眠ったりする。
 こんな時間をいつまでも引き延ばせるわけじゃない。いよいよ動けなくなる前に……イドラで穏やかな時間を過ごしたい。

「イドラに帰ろう」
 キジローの静かな視線を受け止めて、サクヤはうなずいた。
「そうね。イドラに帰りましょう。私たちのうちに」

 医師たちやサクラに相談して、退院の手筈を決めた。家で飲む薬なども用意して、診察や検査をするために、3日後と決めた。
午後、見舞いに来たエクルーは、突然の知らせに驚いた。今回の入院は長くなると覚悟していたのだ。段々と、キジローの体力が落ちてきていた。どんな治療も、薬も、中から弱っていく生命を救えないでいる。
「落ち着ける場所で療養した方がいいんですって」
 サクヤが説明した。
「入院が長くなったから、キジローも疲れが出て来たものね」
「そりゃあ、うちが一番だよ」
 エクルーが明るい声を出した。でも同時に予感のようなものがあった。サクヤと2人で、イドラでの看護体制などを相談した。スオミは朝晩来てくれるし、メドゥーラもこちらの医師と連絡を取り合ってサポートしてくれる。リィンのうちの、メルやミオが看護の手伝いに来てくれることになった。

「温室で寝ちゃあいけないか? 寝室は狭くて……息苦しいんだ」
 キジローが言い出した。
「あそこは小さな天窓しかないし……空が見えるところがいい」
「じゃあ、東側のサンルームは? あっちの方が温かいよ?」
「いや・・・夕暮れの空が見たい」
 南西に窓がひらけているのは温室だけである。
「大丈夫よ。温室なら温かいし、空気もいいし。そうしましょう」
 サクヤが同意した。


 退院まで毎日、サクラが顔を出してくれた。そして、何かしら置いていく。甘い匂いの桜の葉のお香とか、いい匂いの果物とか、胃にやさしい柔らかい風味のお茶とか。
「私もイドラにお見舞いに行きますね」
「うん。小さい姫さんにも世話になった。仕事が抜け出せるときに、のんびりしに来てくれ」
「はい。よかったですね。おうちに帰れて」
「ああ」
 サクラは少し涙ぐんでいるようだった。
 最初の急な入院以来、いろいろと無理を通してしまった。いくらキジローとサクヤがシュアラ出身とはいえ、サクラの口添えが無ければ、こんな待遇は望めなかったはずだ。そして、サクラの兄……帝の配慮がなければ。
キジローは、この少女が、子供らしくない泰然とした微笑を浮かべるたびに、気になっていた。巫女っていうのはみんなこんなものだろうか?精神の弱みや感情の揺れを見せてしまうと、何かにつけ込まれるのか?自衛手段なのだろうが……痛々しい。

「小さいお姫さんに、ひとつお願いがある」
「はい。何でしょう」
 いつも人を助けたいサクラは、一生懸命聞いた。実際、日に日に弱っていくキジローに、何をしてあげたらいいのか、途方にくれて、無力感に苛まされていたのだ。
「たまには、自分のために泣いたり怒ったりしてくれ」
 その言葉は予想外だった。
「何だかつらいんだよ。あんたが・・・自分の感情を押し込めて、微笑んでるところを見ていると……この人みたいで」
 キジローが指差した先に、ちょっと困った顔のサクヤがいた。
「あんたに大事な役目があるのは知ってる。でも子供には子供の仕事がある。もっと我が侭を言って甘えたり……のびのび笑っているあんたを見たい」
 強化手術と脳の操作のせいで、子供らしい感情を奪われた ”石の子供たち”。ようやく教団から解放されても、彼らが笑みを取り戻すのに何年もかかった。
「俺の勝手な我が侭だ。でも友人には、たまには我が侭言ったり、迷惑かけたりしてやってくれ。それが親切ってもんだ」
 サクラには理解できない思考回路だった。迷惑かけるのは親切? でも、カルミノでできたたくさんの友人と、雑多な話をしているうちに、今まで自分が学んでこなかったいろんな気持ちがあることに気付いた。そして……。
「わかりました。やってみます。癇癪起こしたり、だだこねたり……やったことはないから、面白そうです」
「そうか」
 キジローが微笑んだ。
「キジローさん、やっぱりエクルーのお父さまですね。私、エクルーにも同じこと、言われたんですよ。わがままになれって」
「へえ。あいつが」
 その時、エクルーはイドラでキジローを迎える準備をしていて不在だったが、何度かくしゃみをするはめになった。
「エクルーには、大切な気持ちをたくさん教えてもらいました。書物ではわからなかったこと……。エクルーはキジローさんから学んだのかしら? お2人は似ています。やさしいところが」
「へえ、そうなのか?」
 キジローがサクヤに聞いてみた。
「ええ、2人ともやさしいわ」
「ね、そうですよね」
 2人の巫女がにこにこと笑う。キジローは居心地悪そうにもじもじした。


 キジローがイドラに戻った日は、ちょっとしたパーティーのようになってしまった。いつもは病人を疲れさせないようにと小言を言って、見舞い客を追い返すメルもにこにこして、客の応対をしている。キリカはずっと、大好きなととしゃのお腹にのっかって、上機嫌だった。サクヤは片時もキジローの傍を離れず、ちょっとした合図も見逃さずに世話を焼いていた。
 アルにスオミ、ジンにイリス、ルナとカシス、グレンにメル、リィンを筆頭に8人のグレンの子供たち。メドゥーラ。アカネにアヤメ。……いつの間にこんなに大切な人間が増えたんだろう。来たときはたった一人だった。たった一人で、世界を敵に回して自分の娘を救うつもりだった。今は仲間が俺を囲んでいる。キリカにも友達ができた。ほぼ同時期に生まれた赤ん坊がたくさんいる。アルもカシスもグレンも赤ん坊を抱えていた。
 キジローはひどく安心した。もう大丈夫、という気持ちになった。
「ほら、キジロー、夕焼け」
 サクヤが上半身の下にクッションをたくさん入れて、空が見えるように起こしてくれた。
「ああ、夕焼けはイドラが一番だな」
 賑やかだったおしゃべりがやんで、みな次々に色の変わる光の饗宴に見入った。
「よかった……帰って来て……みんな……ありがとう」


 客が帰った後、エクルーはベビーベッドを寝室に運んだ。イドラに帰ってきた最初の晩くらい、赤ん坊の夜泣きなしに両親をゆっくり寝かせてやろうと思ったのだ。サクヤは、簡易寝台をひとつ、キジローのベッドの傍に寄せて、同じ高さから顔を見られるようにした。側のテーブルに、水、薬、タオルなど細々と用意したのを見届けて、エクルーはキリカを抱いて寝室に戻った。
「ととしゃ、かかしゃ、ねんねーなの」
「そうだよ。キリカは兄ちゃんとねんねしような?」
「るーちゃときりちゃ、ねんねー」
 その日、キリカのボキャブラリーが一気に増えた。うちにこんなに大勢人が集まるのも久しぶりだし、両親と長く一緒にいたせいもあるだろう。上機嫌で、たくさんしゃべった。
「ばいばいねー」
「うん。みんな帰ったけど、明日また来る。だから、また明日って言うんだよ。またねって」
「またねー?」
「そう、またねー」
「またねー、ばいばいねー」
 もうすぐ1歳の女の子って、普通、こんなにしゃべるものだろうか? まあ、キリカの場合、普通でないから仕方ない。そういうエクルーだって、お腹の中にいたときサクヤが自分に話しかけた言葉を覚えている。
「あなたはね、私の大事な王子さま。おとぎ話を本当にするために、生まれてくるのよ? だから、あなたと私は幸せに暮らせるのよ? めでたし、めでたし」
 相手が胎児だから油断したのだろう。普段のサクヤからは想像できない甘い言葉。
 反則だよな、とエクルーは思う。信じて勇んで生まれて来たら、王子さまの役はムサ苦しいオッサンに奪われてしまった。
「るー、ねんねー?」
「そうだな、もう寝よう、お姫様。お前が自分で見つけるまで、俺が王子さまやってやるから。幸せになろうなー?」
「ぷー、王子しゃー?」
「めでたし、めでたし」
 何だかほっこりした気持ちになって、エクルーは久しぶりにぐっすり眠った。もう、ずっとこんなに安心して眠ったことはない。キジローがイドラに一時帰宅していても、シュアラにいても、ずっといつも心のどこかで、恐れていた。いつ、恐ろしい知らせが来るか、と覚悟をしていた。でも、もう怖がらなくていい。2人はここにいる。これからもずっとここにいて、俺とキリカを見守ってくれる。


 キリカの声で目が覚めた。機嫌良くしゃべっている。ベビーベッドの上に起き上がって、小さな手を宙に伸ばして、うきゅきゅ、と笑っている。
「ととしゃー、ねんねー?」
「かかしゃー、またねーなのー?」
「ばいばいねー」
 昨日覚えた、バイバイのジェスチャーをしている。
「キリカ?」
 天窓から、バラ色の光が差し込んでいる。もう夜明けらしい。夜の間、一度も目を覚まさなかったのは、ここ半年初めてだ。
「るー、またねーようー?ととしゃー、かかしゃー、またねーようー?」
 エクルーはキリカを抱き上げて、温室に行った。予感はあった。温室は空っぽだった。
「キリカ。ととしゃとかかしゃはどこ?」
「うー、ばいばいようー」

 温室を出て、キリカが手を振る方に歩いてみる。西側の台地。谷間に突き出た岬のように見える。”賢者の石”の欠片がイドラに来て以来、この岬に花が耐えたことが無い。気の早いミツバチがもう蜜を集めるために、忙しく働いていた。台地を囲む林の枝の間に鳥がかしましく飛び交っている。花畑はバラ色に染まっていた。天国ってこういう風景なんだろうか。

 花畑の真ん中に、2人は眠っていた。お互いに寄り添って、手を絡めて、天上の音楽を聴いている。

「ばいばいねー」
「そうだね。キリカ。ととしゃとかかしゃに、またねって言ってごらん」
「またねー」
 もう大丈夫だから、安心して。俺には友人がたくさんいる。小さなお姫様と幸せに暮らすから。今までがんばってくれてありがとう。
「るーちゃ、ないないようー。ないない、だめようー」
「泣いてないよ、ありがとう」