『シュアラの休日』





 



 花の香りで目が覚める。朝の柔らかい光が差し込んでいる。頬にさらさらしたものが触れていて、心地よい。
……ここは天国か? いつの間に、お迎えが来た?

 頬に触れているのは、サクヤの長い黒髪だとわかった。
……じゃあ、まだ俺は生きてるのか? それとも2人一緒に来ちまったかな?
 とりあえず、サクヤの香りを思い切り吸い込む。実在する花ではないとわかっているのに、つい花の名前を当てようとしてしまう。この香りは……スイセン? シロユリ? ギンモクセイ……? 柄でないのはわかっている。でもサクヤといると、いつも花の名前が浮かんでは消える。

 そうっと首を動かして、周囲を見回す。ぱりっとした植物素材のシーツが気持ちいい。まぶしい朝日が、2重の真っ白のカーテンで和らげられている。どうやら、ここはまだシュアラの病室だな。天国への待合室だ。

 シーツにうつぶせていたサクヤが顔を上げた。キジローの顔を見てふわっと微笑む。
「おはよう。気分どう?」
「良好だ。あんたこそ、ちゃんとベッドに入れって言っただろう? そんなじゃ身体が休まらないぞ」
 小言を言っているキジローを尻目に、サクヤはてきぱき検温をして、脈や腹のしこりを調べている。
「熱も、腫れもひいているわ。良かった。ぐっすり眠れたみたいね」
 そういって、冷たすぎないよう素焼きのつぼに入れてあった井戸水を入れたコップと、トレイを差し出した。水を甘く感じる。いつもは、口をすすいだらトレイに吐き出すのに、キジローはうまそうにごくりと水を飲んだ。
「水分を摂れそう? じゃあ、ぬるめのマロウ茶、入れましょうか? ちょっとだけお砂糖入れて」
「うん。もらおう。でも、あんたもちゃんと朝飯食えよ」
「キジローの後にね」
 そう微笑むが、食べないのはわかっている。甲斐甲斐しく看護しているが、サクヤだってほとんど病人といっていいような状態なのだ。それでも、キジローが何か飲めば、一緒に飲む。

「どう? 熱くない?」
「大丈夫。うまいよ」
 花の色のマロウ茶をすこしずつ、口に運ぶ。弱った口や胃腸の粘膜には、熱すぎるものも冷たすぎるものも堪える。強い味にも耐えられない。
「あー、本当はコーヒーを飲みたいよな。それとバーボン」
「だったら、ちゃんとお医者様のいうことを聞いて」
 そういたずらっぽくたしなめるけれど、サクヤにしても奇跡でも起こらない限り、キジローがそこまで回復する可能性がないことは、十分承知なのだ。

「飲んだら、身体を拭きましょうか?」
「いや、久しぶりにフロに入りたい」
 サクヤがぱっと顔を明るくした。
「じゃあ、飛び切りのおフロに入れてあげる」


「何だ、サクヤが一緒に入ってくれるのかと思いきや……」
「バカね」
 サクヤがちょっと顔を赤くする。一緒に暮らして18年にもなるのに、こういうところはいつまでも慣れないらしい。それでも、お湯の熱に頬を染めて、うでまくりにすそをからげてキジローの入浴を手伝っているサクヤは色っぽかった。医者のプログラムに則って、お湯の温度、水深、入浴姿勢を変えながら、フロに入れる薬草を変えていく。
「へえ、いいにおいだな。これ、何種類、草が入っているんだ?」
「全部、この療養所のある山で取れたものなんですって。山の息吹を受け取ってちょうだい」
 そう言って、オレンジ色の果物を差し出した。
「おフロに入れるのは、皮だけでいいの。中身は果汁をしぼってあげましょうか?」
「俺はいい。あんたが食べろ。それなら食べられるだろ?」
「でも……」
「あんたが食べれば、俺が安心するんだ。ストレスは大敵なんだろ?」
 くすっと笑って、皮をむき始める。
「わかった。いただくわ、ありがとう」
 鮮烈な果実の香りに、キジローは胸いっぱいに息を吸い込んだ。
「ああ、いい匂いだ」
「ひとくち、食べる?」
「いや、あんたからもらうからいい」
 そう言って、キジローはサクヤの肩をぐっと掴むと、くちびるを合わせた。サクヤも今度は赤くならずに、大人しくキジローに顔を寄せている。毎日、身体を拭きながら見ているけれど、こうやって抱き合うと実感する。細くなった……首も肩も胸も。筋肉がおちて、骨格がはっきりわかる。
「……おいしかった?」
「ああ、極上だ」

 うしろで咳払いがする。
「まずいタイミングで来ちゃった?」
「エクルー? どうしたの、急に」
「リィンとメルが、キリカを見てくれてる。キジローが調子良さそうなんで、会って来いって。でも、ちょっと元気良すぎじゃないの?」
「おまえの方は、しけた顔してるじゃないか。育児疲れか?」
「キリカにならいくら面倒かけられてもいいんだ。でも、これだけかわいがってるのに、リィンの方になついてるから、がっくり来てるんだ」
「そりゃあ、しょうがない。あいつはいろいろと器の違う男だからな」
 顔を合せると、いつもの軽口の応酬になってしまう。
「いいところに来た。いくらやせたって、サクヤだけで俺をここから引っ張り出せないからな。男手を呼ぼうと思っていたところだ」


 フロから出ると、キジローは疲れて眠ってしまった。それでも、さっぱりしたらしく、気持ちの良さそうな寝息を立てている。エクルーは、キジローの裸体にショックを受けていた。いつもニットの帽子や襟巻きや、厚いガウンで防寒していたので、わからなかったのだ。小さくなった。10年前の半分ほどに感じる。肌に張りが無い。髪もいちだんと抜けていた。

 キジローを薬師に任せて、2人で中庭に出る。
「温室はどう? キリちゃん、泣いてない?」
「そりゃあ、赤ん坊は泣くのが仕事だから……でも、あやす人に困らないからな。人気者だよ。リィンちの豆が気に入ったらしくて、いくらでも食うんだぜ」
「まあ」
「アカネもずっと来てくれているし、リィンやアヤメも毎日差し入れに来てくれる。こっちは心配しなくていいよ」
「うん……ごめんね」
 サクヤがすうっと腕をのばして、エクルーの髪をすく。
「あなたが頼りよ。苦労かけるけど……」
 エクルーは、サクヤの手をつかんで、自分の髪から離すと、その甲にくちびるを当てた。
「俺は平気だよ。サクヤこそ……ちゃんと食って寝ろよ?病人に心配かけるなよ?」
 熱っぽい言葉をあやすように、微笑んだ。
「大丈夫。心残りのある幽霊はなかなか成仏しないんだから」
「そういうこと言うなよ!」
 エクルーが乱暴にサクヤを抱きしめる。サクヤは逆らわずに、エクルーの肩に頭を休めてじっとしていた。
「ごめんね。キリちゃんをお願いね」
「だから、そういうこと言うな」遺言みたいに聞こえる。
 何を言ってもつらい。何も言葉が出ない。エクルーは充電するように、目を閉じて、サクヤの身体をじっと抱きしめていた。

 先に気づいたのはサクヤだ。
「あ、アカネちゃん」
 エクルーははじかれたように、サクヤの身体を離した。
「一緒に来てくれていたの? ありがとう」
 アカネは少し戸惑っているようだった。
「ええ、先にサクラちゃんと院長さんのところにあいさつに行っていました。メドゥーラに言付かった薬草を届けに」
「そう。キリカの世話を手伝ってくれているんでしょう? 本当にありがとう」
「ううん。キリちゃん、かわいいもの。私もうれしんです。キジローさんは……?」
「今、眠っているの。でも寝顔でいいから見ていってやって」
 2人は病室に戻ったが、エクルーは中庭に残っていた。


 やがて、アカネが一人で中庭に戻ってきた。
「キジローさん、また少し熱が出て来たみたい。今、氷で冷やしているの。でも身体の痛みはかなりラクになったみたい。薬草浴が有効だったって、お医者さんが言ってた。ゆるい流動食なら食べていいって言われて、サクヤさん、喜んでいたわ」
 エクルーは目を合せようとしない。
「いいの? 帰る前に会って来なくて」
「見たんだろ?」
 背を向けたまま、エクルーが言う。
「見たって何を?」
「俺とサクヤを」
「ええ」
「気持ち悪くないのか?」
 乱暴に聞く。
「気持ち悪く・・・はないかな。悔しくはあるけど」
 考え考え、アカネが言った。
「悔しい?」
「あんな風に私も甘えられてみたい」
 エクルーは振り返った。
「だって気持ち悪くないのか? 自分の母親とあんな……」
 アカネはあきれ気味にきっぱり言った。
「だってしょうがないでしょ? 言ってたじゃない、あなたのお父さんの記憶が残っているんでしょ? あなたのお父さんは、まだサクヤさんを愛してるんでしょ? じゃあ、あなたがお父さんの分も、サクヤさんを抱きしめてあげなきゃ」
 エクルーは口をぽかんと開けた。何て単純な事実の把握の仕方だろう。
「……それでいいの?」
「良くないけど、仕方ないじゃない。だから、ぐじぐじ悩む暇があったら、お父さんの分もサクヤさんを大事にしなさいよ。わかった?」
「……わかった」
「よろしい。さ、病室に戻るわよ」


 アカネとエクルーが並んで病室に入ると、キジローはにやっとして意味ありげにエクルーをこづいた。それで、エクルーもこづき返してやった。小さなカップから、サクヤが少しずつゆるめのマッシュ・ポテトを食べさせている。
「キリカに追い抜かれるな」キジローが笑う。
「何か食いたいものある? 持ってくるよ?」
 キジローがにやっとする。
「バーボン」
「キジ……!」
 複数の抗議の声が上がった。
「冗談だ。あの緑の小さな豆がいいな。それと黄瓜。あと、香りだけでいい、コーヒーの匂いを嗅ぎたい。豆持ってきて、ここで挽いてくれ」
「わかった。持ってくる」
 サクヤがお茶を入れながら言った。
「このまま痛みが引けば、明後日にでもキリカを連れてまた来てちょうだい」
 サクヤの予報がはずれたことがない。
「明後日?」
「明後日。都合がつけばアヤメちゃんやリィンも一緒に。サクラちゃんが会いたがっていたから」
「ええ、連れてきます! 良かったね、エクルー!」
「……うん」 やばい。泣きそうだ。近頃、あちこち壊れているらしい。

 2人で泉に戻りながら、アカネはため息をついた。
「こういう言い方は不謹慎かもしれないけど、キジローさんとサクヤさんってうらやましいわ。あんな風に寄り添いあえる夫婦って素敵」
「ジンとイリスだって仲いいじゃないか」
「そりゃそうだけど……私、もしエクルーが年取って病気になっても、ちゃんと看病してあげる」
 アカネが妙に張り切っている。
「俺も、アカネが病気になったら看病するよ」
 エクルーがにやにやしながら保障した。
「……ううん。それはいいわ」
「どうして?」
「こちらが動けないのをいいことに、いやらしいことされそう」
「当たり前だろ。それに、夫婦なんだからいやらしくない。おフロだって入れてやる」
 アカネの顔が真っ赤になった。
「もう! バカ!」
 悲壮な気持ちでシュアラに来たのに、笑いながら帰るなんて。アカネのお陰だ。すぐ赤くなる俺の女神。君がいるだけで、俺は無敵だ。どんなことでも乗り越えられる気がしてくる。
 アカネが微笑んで手を差し出した。
「帰ろう?」
「うん、帰ろう」
 2人は手をつないで、青く輝く水面に足を踏み入れた。