『ぬばたまの』






 
 キリカが泣き止まない。昨夜からずっと泣き続けて、もう涙も出ない。声も出ない。でも、ふぐふぐ、むずかっている。熱は無い。お腹も壊してない。いいウンチだ。ミルクもよく飲んだ。それでも落ち着かない。でも、自分の不安を表す方法がまだわからないのだ。泣く以外に。

 こんなに小さいのに。エクルーは低い声で歌を歌いながら、明るいやさしいイメージを送ろうといろいろやってみた。ふわふわのひつじ。ふわふわの毛布。ふわふわのくまさん。おいしいハチミツ。ふわふわのパン・ケーキ。連想ゲームである。でも、見たことの無いもののイメージを送られても、処理しきれないのだろう。機嫌のいい時は、エクルーが送る踊るくまのイメージできゃっきゃと笑うこともあるが、根源的な不安をぬぐいされるほどのインパクトはまだない。
 こんなに小さいのに、こんなことに直面しなくちゃいけない。でも、お前が生まれて来てくれてよかった。2人なら耐えられる。


「あの……」
 温室のガラス戸を開けて、おずおずとアヤメが入って来た。
「キリちゃんが具合悪いって聞いたから……。大丈夫?寝てないんじゃない?」
「俺は大丈夫。でも、キリカが消耗してて」
「あの・・・アカネは?」
 アヤメが落ち着かなげにキョロキョロした。両親が療養中のこの家で、アカネは泊り込みで子守りを手伝っているのだ。
「うん。今、リィンのうちに行ってくれてるんだ。ルパのお乳と卵をもらいに。何か口当たりのいいものを作ってやろうと思って。一晩中泣いたから、もう口もカラカラで痛そうなんだよ」
「かわいそうに。よしよし、おいで」
 アヤメが手馴れた様子で、キリカを受け取ってあやし始めた。
「ちょっと頼んでいい? お茶用意するよ。ずっと、キリカの残したミルクくらいしか飲んでないんだ」
「そう思って、これ」
 あごで、足元のバスケットを指した。
「子守り用の朝食」
 エクルーがふうっと安心したように笑った。張り詰めていた緊張が解けたように。
「ありがとう。すぐ、お茶淹れる。キリカ、見てて」


 温室のテーブルで、差し向かいにお茶を飲んだ。エクルーはうれしそうにサンドイッチを食べた。キリカはアヤメの膝で泣きつかれたように眠っている。色とりどりの魚と泳ぐイメージの中でまどろんでいる。
 こんなに穏やかに、エクルーと過ごすなんて何年ぶりだろう。

「どうして、こんなにむずかるのかしら。具合は悪くないんでしょう?」
「うん。原因はわかっている。この子は”星の夢”を見ているんだよ」
「それって、サクヤさんの……」
「うん。継いじゃったんだろうね」

 サクヤは”もうない星”で”星読みの司”だった。時間を超越した虚無の空間に意識を飛ばし、予兆を告げるのが役目だった。星など無くなって3万年経っても、夢にうなされ、駆り立てられ、穏やかな暮らしを送ることができなかった。……イドラに来るまで。

「これほど泣くなんて……いったい何の夢を見たの?キリちゃん」
 アヤメがそっと柔らかい髪を梳いてやる。両親譲りのきれいな黒髪だ。
「多分、俺が……ずっと子供の頃から脅えていたことが現実になるんだよ」
 エクルーは静かに言った。アヤメが顔を上げた。

「アヤメ、小さい頃からずっと俺をなぐさめてくれてたよね。ありがとう。俺、今まで言えなかったけど、君のやさしさには本当に救われた。でも、もう大丈夫」
 きれいな笑顔で微笑みかける。大丈夫? もう大丈夫ってどういうこと?
「いざこうなってみると、もうおたおたしていられないというか、腹が据わったというか。もう俺はガキじゃないし、キリカもいるし」
 落ち着いた声で話している。

 サクヤとキジローのシュアラでの療養は、実質、緊急入院だった。もう、スオミやメドゥーラの用意する薬草では、キジローの痛みを抑えきれなくなって、仮死状態に陥ったのだ。キジローは延命治療を拒否していたので、対処療法しかできないが、それでもシュアラの誇る医療技術に最後の望みを託した。小康状態まで回復したので、岩盤の放射線を浴びたり、泉水を飲んだりして、奇跡を待っている。半分幽霊みたいなサクヤが、キジローを励ましながらつきそっているのだ。そんな場所に、癇のするどい赤ん坊を連れて行けるわけがない。

「俺は、ずっと事実に向き合うのが怖くて脅えていた。でも、もう向き合うしかない。だからもう心配しないで。リィンと幸せになって欲しい」
「でも……」
「もちろん、これからも力になって欲しいよ? キリカはまだ当分、手がかかるだろうし……。いい友達でいて欲しい」
 柔らかい、でもきっぱりとした拒絶。こんな断り方ってあるだろうか? ずっと見守って来た男の子を、今、こんな時に見捨てろっていうの?
「お医者様は……何て?」
 震える声で訊ねた。
「医者よりもサクヤの方が確実だ。きっと日ひちまでわかってるんだろうと思う。そこまでは教えてくれなかったけど……1年後の今日には、確実に2人ともいない」
 何てこと。何て残酷な。それではキリカが物心つく前に、2人はいなくなってしまう。キリカがママ、パパ、と呼ぶ前に死んでしまうかもしれない。
 泣きたいのは私じゃない。泣いていいのは私じゃない。そう言い聞かせたけれど、涙が止められなかった。それでも、私にはもう何もして上げられることはないのだ。子守りを手伝うくらいしか。

「私にできることがあったら何でも言って。リィンと一緒にいつでも駆けつける」
「うん。当てにしてる。ありがとう」
 エクルーはいつもの明るい笑顔で言う。
「私・・・もう帰るわ。また差し入れにくるわね」
 こんな泣き顔をアカネに見せるわけにいかない。アヤメはハンカチで顔をぬぐうと、キリカを起こさないようにそっと立ち上がった。

 キリカを受け取りながら、エクルーはそっとアヤメの方に屈んだ。きれいに結った青みがかった銀髪のつむじに、そっとくちびるをつけた。
「ありがとう。君は今でも、一番大事なやさしい幼馴染だよ」
……でも恋人ではない。そういうことね。これ以上、私の思いで悩ませるのはやめよう。リィンを苦しめるのはやめよう。
「ええ、そしてあなたは私の妹の大切な人。アカネを泣かせたら、承知しないわよ?」
「うん、義姉さん。いつでもしかりに来て」
 にっこり笑って、付け加えた。
「それに君は、キリカを泣き止ませる名人だね。やっとぐっすり寝てくれた」
「もちろんよ。生後6ヶ月からリィンのお守りをしているんだもの」
「ははっ、そりゃ、あいつ、頭が上がるわけないよな」
 アヤメはすっと背を伸ばした。
「さよなら、エクルー」
「うん、さよなら。ありがとう」

 ルパに乗って、温室を離れる。涙がいくらでも出てくる。
 エクルーは直視すると言った。だから、私も現実に向き合おう。心を決めなくっちゃ。強くならなくっちゃ。大切な人を支えられるように。

 アヤメはグレンとメルがテントを張っている放牧地までやってきた。リィンは遠くからアヤメを見つけて、すぐにルパで駆け寄ってくる。
「あれっ、どうしたの? 今、アカネが帰ったんだよ。すれ違わなかった?」
 それには答えず、アヤメは両腕を伸ばして、リィンの方に身体を投げ出した。リィンは危なげなくアヤメを抱きとめて、自分のルパに横向きに座らせた。
「どうしたの? 泣いてるの?」
 アヤメはしばらく、リィンの胸に顔を隠していた。
「あのね、来年の春祭り……」
「うん?」
「髪を結わずに出るわ」
 リィンはびっくりして、ルパからずり落ちそうになった。髪を結わないということは、プロポーズを受ける、という意味なのだ。
「歌を歌ってくれる?」
「うん。もちろん……歌を返してくれる?」
 アヤメは涙に濡れた目で、リィンを見上げた。
「もちろんよ」