『玉章(たまづき)の』






 

 アヤメは小さなホタルたちにせがまれるまま、日が差し込む明るいサンルームでピアノを弾いていた。この間、リィンと調査に行った、南の泉の話を聞かせているのだ。光を受けて、腰まで伸びた髪が広がっている。身体の細胞のひとつひとつにエネルギーが満ちる。こうして光を浴びて、音楽の中にたゆたっている時間が一番好き。
 不思議なものだ。双子なのにアカネは、ほとんど光に頼っていないように見える。父さんと同じくらいたくさん食べるし、髪もあんなに短く切ってしまって……。それに、アカネはもう何年も歌を歌ったこともピアノを弾いたこともない。小さい頃は一緒に歌ったものだ。打ち合わせなしで、大気に満ちている歌をデュエットすることができた。水の流れを、風を、光を、歌にすることができた。二人で大地に溶け込んだような気持ちになれたものだったのに……。
 どうしてこんなに離れてしまったのかしら。アヤメは原因に思い当たって、胸がちりっと痛んだ。エクルー……あの、明るく笑う幼馴染。7歳で出会った。アカネと私は2人一緒に好きになった。それ以来、彼の話ばかり。ずっと2人一緒にエクルーを好きでいられると思ったのに。彼を間に挟んで、私とアカネは遠く離れてしまった。お互い傷つかないように。

『アヤメとアカネはね、どちらも花の名前だけど、別の意味もあるんだよ?』
 父さんが話してくれた。
『アヤメはね、きれいに整った織物の模様とか、音の重なりを意味する言葉なんだ。アカネは、明るく澄んだ音を意味する。だから2人は生まれつき、自分の気持ちをきれいな音楽に乗せて歌うことができるんだよ』
 私達は、父さんの込めてくれた願いを裏切っているんじゃないだろうか。

 物思いにふけっていると、ホタルたちが続きをせがんだ。
「あ、ごめんね。それでね、着いてみると、泉の水が濁っていて、あなたたちの兄弟が苦しんでいたの。卵がいくつか死にかけていてね、急いで隣の泉に卵を引越ししたのよ?」
 近くにミヅチが飛んでこれるほど大きな水域がなかったのが、不幸だった。アヤメとリィンは、ずぶ濡れになって卵を運んだ。水温が上がると卵が死んでしまうので、夜の間に素焼きのつぼに濡れた布をかぶせて30キロ離れた泉に二往復した。ルパに乗ってのこととはいえ、朝、気温が上がり始める前に無事運び終えた時には、2人ともくたくただった。でもうれしくて、いつまでもぐったりへたり込んだまま、顔を見合わせて笑ったんだっけ。
「もうちょっと育って目が生えてたら、誘導すれば自分で移動してくれたのにね。本当の赤ちゃんだったから」

「それでね、なぜ、水が濁ったかっていうと、この間の地震で地下の水の流れが変わっちゃったの。湿地の濁った温かい水が、泉に逆流するようになったのね」
 アヤメはピアノを弾いた。あのとき感じた水の大きな流れ。その水域全体が様変わりしていた。もともと湿地だったけれど、それが大きな湖になっていた。濁った温かい豊かな湖。湖面を青紫のウキヒヤシンスの花が埋めていた。
「たくさんの鳥や動物の声で賑やかだった。こんな大きな鳥も集まってたのよ?それから野生の黒牛の群れ、ノロジカの親子も見た。そしてピューマ!」
 ホタルたちはさざめき立った。
「ああ、怖くないのよ?ピューマは美しい生き物でね。リィンは……すごいわ。ピューマとも友達になっちゃうの」
 アヤメも動物が大好きで、野生の生き物を無闇にこわがったりしないけれど、それでもリィンがピューマの鼻面にそっと手を触れた時は、鳥肌が立った。神々しい瞬間に居合わせた気がした。お互いに尊敬して、相手を認めて、礼儀正しくあいさつを交わしている。
「それでね、水の流れを何もかも元通りにするのはやめることにしたの。泉への逆流は防ぐように、でも新しい湖への水の流れは堰き止めないことにしたの。きっと来年の夏までには、魚もたくさん増えて、もっといろんな生き物が来る場所になるわ」
 工事はあっという間だった。ぱっとフレイヤが現れて、ぱちっと指を鳴らすと、もう水の流れが変わったのがわかった。滞っていた流れが通る。淀んでいた空気がふうっと息をついた。
「すごいわね。あの子まだ4歳なのよ。これからどんなに強くなるかと思うと……ちょっと怖いわね」
 そう言いながら、アヤメは楽しそうにひとしきりくすくす笑った。彼女の両親……アルもスオミも、あんなに穏やかな性格なのに、フレイヤはどういうわけか毒舌で大人をたじたじさせる名人なのだ。今回は大人しいリィンがターゲットだった。

 2人の野営地を見て、フレイヤは言ったのだ。
『これほどの好機を活かしてないんじゃないでしょうね?』
 リィンは最初、言葉の意味がわからないようだった。
『紳士なのも結構だけど、女の子に恥をかかせることだけはないようにね』
 リィンを真っ赤にさせておいて、フレイヤはいい逃げで消えてしまった。

 2人だけで調査に行くと決めた時から、私の気持ちは決まっていた。このやさしい幼馴染に全てをあげるつもりだった。私の気持ちを知った上で、それでも私を好きだと言ってくれたから。ありのままの私を受け入れると言ってくれたから。
 でも、リィンは本当にありのままの私を見てくれているんだろうか。リィンの心の中には、違うアヤメが住んでいるんじゃないだろうか。女神のような私。決して汚れた気持ちなど抱かない私。嫉妬に苦しんだりしない私。

 夕食の片付けが終わって眠るまでが一番緊張する時間。ほとんど会話もできずに、火をはさんで黙りこくってしまった。それで、わたしからそっと近づいて、両腕をリィンの首に回したのだ。

 リィンはやさしかった。おずおずとまるでガラス細工を触るように、私の背中に触れてきた。ようやくひとつになれた時、これで幸せになれるかと思ったのに。
 翌朝、リィンの表情は硬かった。ほとんど目を合わせてもくれなかった。私は何かまちがっていただろうか。

 リィンのことは大好きだ。やさしいし、尊敬できる。私がしょげている時になぐさめる名人だ。絶対誰もあんな温かい言葉を思いつかないだろう。あの澄んだ深い群青の瞳。どんな宝石もかなわない。そして光に透けて輝く金色の髪。……こんなにいい人なのに。
 どうして、私の”特別”じゃないんだろう。エクルーはあんなにやさしくない。軽薄でイジワルなことを言う。私をなぐさめてくれたことなんかない。それどころか、用心深く距離を取って、私に近寄ろうともしない。あんな人を思い続けても仕方ないのに。アカネとエクルーが一緒にいるのを、一番喜んでいるのは私だ。快活で利発なアカネは、エクルーにぴったりだ。なのに……どうしてこんなに胸が痛むんだろう。リィンはあんなにやさしくしてくれたのに。


 急にホタルが騒ぎ始めた。空気がぴりぴりしている。こんな時は異変を感じ取っているのだ。地震か、あるいは大きな嵐だろうか。アヤメはルパに乗って、白岩の泉に走った。泉のある岩山に向かって、ホタルがぞくぞくと集まっている。祠のあるピークが青く見える。ミヅチが来ている証拠だ。何事だろう。 

「ようやく来たね、アヤメ。でも遅いよ。この男はわらわがもらうことにした」
 スセリが薄青く輝く美しい身体を泉に横たえていた。緑色の深い瞳。端正な角が2本、額から出ている。長い首と尾が描くなめらかな曲線に包まれていたのは……
「リィン!」
 水の中で眠っているように見える。まるで胎児のように身体を丸めて漂っていた。その周りをホタルの幼生が取り囲んでいる。
「そう。でも、お前はもうこの男は要らないんだろう?好きな男に振り向いてもらえない寂しさを埋めてくれるなら誰でもいいんだろう?この男の横で、寝言で好きな男の名前を呼ぶくらい、こいつはどうでもいいんだろう?」
 アヤメは両手で口を覆った。私、そんなことをしたの?そんなひどいことを?
「これからしばらく流星雨が降る。かなり大きな星も落ちてくる。大火事が起こって冷夏と旱魃がくる。それでホタルが動揺しているんだよ。これではちゃんと育たない。だから、この男が必要なんだよ。こいつぐらいうまい守り役はいない。ここで役に立ってもらうよ……そうだね、5年くらい」 「だめよ!5年も水に閉じ込めるなんてひどい。リィンを返して!」
「そういうわけにはいかない。お前はこいつで無くてもいいんだろう?でも、こっちはこいつじゃなくては役に立たないんだ」
 両手のこぶしを握った。何と言えばいいのだろう。確かに泉守りはリィンの役目なのだ。でも5年も冷たい水の中で眠って過ごすなんて……その間、話すこともできないの?手をつなぐことも?やさしく髪に触れてもらうことも?私がそんなひどいことをしたのに……リィンは私を責めなかった……一言も。5年後まで謝ることもできないの?
「いや!リィンはたった一人の存在なの!いくら大事な役目でも、貸すわけにいかないわ!どうしてもというなら・・・代わりに私を使って!」
 スセリの緑の瞳がきらっと光った。
「ほほう。かまわんぞ。ホタルはお前にも懐いておるからな。水の中で眠りながら、歌を歌ってもらおうか……5年間」
「ええ、わかったわ。代わりにリィンを起こして!」
「よかろう。ただし、リィンを起こすのは、お前が眠った後じゃぞ」
 それでは、謝ることもできない。でも良かったのかも。このまま5年も会えないのなら、私のことを嫌いになって、忘れてもらった方がいいのだ。

 アヤメは泉の中に足を踏み入れた。集まった膨大な数のホタルが、アヤメを覆い隠すように飛んでいる。頬にこぼれる涙をなめようと群がっているのだ。
「水の中でも息はできるから、怖がらんでよいぞ」
 スセリの声が聞こえる。でも、息が出来ようが出来まいがどうでも良かった。リィンが目覚めてくれるなら。

 リィンの横に身を横たえる。そっとリィンの頬に触れてささやいた。
「ごめんね、リィン」

 その瞬間、リィンの目がぱちっと開いた。そしてがばっと身体を起こすと、アヤメを抱き起こした。
「アヤメ!どうしたの!風邪ひくよ、こんなところで……」
「どうしたって……だって……あ、ダメよ、私は眠らなきゃ……あなたの代わりに」
 もう一度、水の中に寝ようとするアヤメを、リィンが引っ張り出す。
「だから、どうしたってのさ。もう大丈夫だよ。こいつらは落ち着いた。ぐずっているのを、なだめているうちに、つい寝ちゃったんだ」
「つい……寝ちゃった?」
「うん。アヤメも寝たいなら止めないけど、こんなに騒がしいところじゃ、眠れないだろ?」
 確かに騒がしかった。ホタルがちりちり音を立てて笑っている。きゃらきゃらとじゃれ合っているのもいる。スセリはにやにやしている。
「長く生きていると時間の感覚が狂ってのう。5分の間違いじゃったかの」

「何の話?」
 リィンがきょとんとしている。
 アヤメはリィンの胸にしがみついて、大きな声を上げて泣き出した。まるで子供みたいに泣きじゃくっている。いつも落ち着いて微笑んでいるアヤメしか見たことがないので、リィンは度肝を抜かれてしまった。自分が仕えるべき巫女として讃えて敬っていた女の子が、今、顔を真っ赤にして泣いている。リィンのケープで鼻をかんでいる。……かわいい。
 思い切り泣かせてやることにして、リィンは視線をスセリに向けた。
「何やったの?」
「まあ、ちょっとしたおせっかいだ。こっちとしては優秀な巫女を、よその男なんぞにさらわれては困るからの。ちゃんと捕まえておけよ」
「どうして、誰も彼も、人のこと……」
 リィンはため息をついた。
「アヤメ、泣いてていいから泉から出よう。ここで泣いててもホタルを喜ばせるだけだよ?」
 アヤメがリィンの胸から顔を離した途端、涙が好物の大量のホタルにもみくちゃにされた。
「おせっかいついでに教えてやろう。この間の地震で、この岩山の裏に温泉が湧いての。風邪を引かないように温まっていくといい」
  「重ね重ね、ありがとう。スセリ」


 2人は濡れた服のまま、ざぶんと温泉に浸かった。アヤメは泣きすぎて、まだ頭がぼおーっとしていた。
「それで、スセリに何て言われたの?」
 リィンが知りたがった。
「何でもないわ」
「でも、そのせいで泣いてたんだろう?」
「何でもないの」
 アヤメはまた赤くなった。スセリのいじわるのせいで、リィンがどんなに大事か改めてわかった。よかった、手遅れにならなくて。
「私とスセリ、女同士の秘密なの」
「ふうん」
 妹の多いリィンは、そう言われると怖いので、それ以上追求をあきらめた。
「ねえ、気が付いたんだけど」
「うん」
「ここは温かいけど、ここを出るときはどうしたらいいのかしら」
「大丈夫、さっきルパを使いにやった。そのうちイズミが着替えと毛布を持って、助けにきてくれるよ」
「どのくらいで来てくれるかしら」
「30分くらいかかるかな?」
「じゃあ、それまで2人だけよね?」
「ホタルを勘定に入れなければね」
「多すぎて、数えられないもの」
 そう言って、アヤメはそっとリィンにキスをした。さっきからびっくりすることばかりだ。まるで別人みたいだ。でも、この別人みたいなアヤメも魅力的だから構わない。むしろ、前より好きかもしれない。
「うん、勘定しなくていいよ」