『茜さす』






   キリカはミルクの後のげっぷも出たので、安心してうとうとしていた。エクルーは小さなぐにゃぐにゃした妹の背中をそっと叩きながら、低い声で歌っている。不思議だ。こんなに小さいのに、キジローにもサクヤにも似ている。こんなに小さな指に一本ずつきちんと爪がついているのも不思議だ。小さな手で、エクルーの人差し指をきゅっと握っている。

 キジローとサクヤは、泉を通ってシュアラに療養に行っていた。キリカを連れて行く、と言って聞かなかったのだが、エクルーが止めたのだ。まだ夜泣きする赤ん坊連れで療養になるわけない。第一、首も据わらない、風邪を引きやすい赤ん坊を慣れない場所に連れて行くのはもっての他だ、と説教したのだ。キジローもサクヤもシュアラ出身だし、懐かしい場所に違いないだろうが、キリカにとっては初めての場所なのだ。サクヤはエクルーをシュアラで生んだ。お産で死に掛けて枕から頭が上がらず、そのまま7年、シュアラで療養するはめになった。だから、エクルーにとってシュアラは寂しい場所だった。いつ母親が死んでしまうかと、不安をかかえながらひとりで膝を抱えて過ごした土地。キジローと再会して一緒にイドラに来るまで、一人で必死でサクヤを守っていた。キジローとサクヤの仲のいい様子を見ると、ちょっとちりっと胸が痛むことがある。でも、良かったのだと思う。かわいい妹も生まれたし。

「あら、寝ちゃったのね。毛布かけようか?」
 哺乳瓶を洗っていたアカネが台所から戻ってきた。温室に差し込む金色の西日を受けて、ショートカットにした薄く青みがかった銀髪がきらきら光っている。
「大丈夫。ミルク飲んだらちょっと熱くなったらしい」
「本当だ。汗かいてる」
 アカネは隣に座ると、手を伸ばして、赤ん坊のおでこや首筋をやさしくタオルでふいてやった。よだれかけをはずして、えりもとを開けてやる。
「よしよし。ちょっと汗がひくまでね」
 乗り出したアカネの肩や腕が、エクルーの胸に当たっているが、気がついていないようだ。女の子って、肩でも柔らかいんだな。

 エクルーが自分を見つめているのに気がついて、アカネが顔を上げる。
「どうしたの?」
「ううん」
 アカネが来てくれて助かった。アカネは4つ下に男の三つ子がいるし、リィンとこに弟妹が生まれる度に手伝いに行っていたから、赤ん坊の扱いが手馴れていた。アヤメとリィンは、南の湿地に出かけて留守だっだ。その湿地を守るはずの泉の水が濁って、ホタルが悲鳴を上げたので、原因を調べに行っている。アカネは、キリカのために、ここに残ってくれたのだ。
「よかった。アカネが一緒にいてくれて。俺ひとりだとお手上げだったと思う」
 エクルーは素直に感謝の気持ちを口にした。
「いいの。キリちゃんがかわいいし。それに、私だってお邪魔ムシになりたくないもの」
 最近、どうやらリィンはアヤメとうまく行っているらしいのだ。リィンは何といっても生後6ヶ月からアヤメが好きなのである。リィンが泣いているとき自分も8ヶ月児だったアヤメが、ぷーぷー言ってあやしてくれた、と主張する。アヤメは覚えていない、と笑うけれども、リィンは真剣だった。
「アヤメ、旅行の用意しながら楽しそうだったのよ?鼻歌なんか歌っちゃったりして」
「よかったな、あいつ。17年越しの恋だもんな」
 アカネはため息をついた。
「すごいわよねえ。アヤメは学校でもずっとたくさん手紙をもらってたけど、そんな風に人に思われるってどんな気持ちかしら」
「アカネはもらわないの? ラブ・レター」
 アカネが赤くなった。
「え? いえ、そんな……アヤメの手紙を頼まれるばっかりで……。双子なのにどうしてこんなに違うのかしら。アヤメはやさしくて、優雅で、神秘的なのに」
 エクルーがきょとんとした。
「アカネだってやさしいし、優雅だし、神秘的じゃないか」
 アカネがさらに赤くなった。
「うそ。子守りを手伝ったからって、おせじを……」
「うそじゃない。アヤメとちょっと性質が違うだけだよ。アカネはよく植物としゃべってるだろう?俺、いつもうらやましかった。猫科のケモノみたいに、動作にムダが無くてきれいだし。俺よりずっとイドラの自然に愛されてると思う」 
 アカネが顔を上げて、エクルーの方をまっすぐ見た。目がまん丸に大きくなっている。今にもこぼれ落ちそうに、涙が目の中にあふれていた。がたっと立ち上がると、温室の庭園の奥に走って行ってしまった。 
 エクルーはぐっすり眠っているキリカをベビーベッドに寝かせて、ゲオルグに子守りを頼んだ。そうして庭園にアカネを探しに行った。


 アカネの場所はすぐわかった。涙をなめるのが好きなホタルに囲まれていたからだ。ホタルに好かれるのは母親譲りらしい。
「アカネ」
 エクルーの声に、アカネは振り向かなかった。
「ごめん。俺、何か悪いこと言った?」
 アカネは背を向けたまま、首を振った。
「でも、泣いてるじゃないか」
「エクルーのせいじゃないわ。ただ、恥ずかしかったの」
「恥ずかしい?」
「あなたはやさしいから、何の気もなしに言ってくれただけなのよ。特別な気持ちなんか何もない。私がイジケているから、いつものようにサービスしてくれただけなのよね。なのに喜んで舞い上がってしまった自分が、惨めで恥ずかしいだけ」
 エクルーはちょっと距離をおいて、ホタルが飛び交う泉水盤の縁に座った。
「君、ずいぶん、俺の気持ちに詳しいんだなあー」
 わざとぞんざいな口調で言う。
「じゃあ、今、君と温室に2人きりで、俺が何考えてるかわかる?」
「……ないわ」
 まだ、鼻声でアカネが言う。
「何?」
「2人きりじゃないわ。キリちゃんもゲオルグもセバスチャンもホタルもいる」
「ああ、わかった。フランツもカンザンもジットクも、他65体のターミナル・ロボットが稼動中だ。でも、みんな俺たちの邪魔はしないだろ?」
 エクルーはちょっと移動して、アカネの隣に移動した。
「何の邪魔?」
「こーゆーことの」
 いきなりエクルーのくちびるが、自分の口を覆ったので、アカネはパニックになった。
「きゃあああああああ」
 両手でエクルーの肩を押しのけたので、エクルーは見事に泉水盤に落っこちた。ホタルは大喜びである。

「あっ、ごめんなさい!びっくりして……大丈夫?」
「大丈夫じゃない」
 エクルーは水の中でうなだれた。
「どこか打った?」
「俺……アカネに好かれてるんだと思ってた。うぬぼれだったんだなあ」
「違うの!」
「何が違うの?」
「だって……アヤメもエクルーのことが好きだったのよ?アヤメの方がお似合いだったし、だから私は……」
「アヤメも、ってことは君も?」
 アカネがまた真っ赤になった。
「君も……何なの?」
 アカネは目を閉じて、振り絞るように言った。
「私も、エクルーが好き。あなたが7歳でイドラに来たときからずっとよ?でも、あなたとアヤメはお似合いだった。2人の波動が溶け合って、シンクロしているのをいつも見ていたわ。私はとても勝てない、あきらめなくちゃと自分に言い聞かせて今まで来たの」
「うん……俺とアヤメはぴったり溶け合うことができた。でも、それは相性がいいからじゃないんだ。アヤメが合わせてくれていたんだよ、俺を慰めるために。だから、俺が隣にいると、アヤメの波動が、アヤメの色が消えてしまう……俺はずっと、それが怖かった」
「怖い?」
「うん」
 エクルーは笑ってみせたが、寂しそうな表情だった。
「俺の中に、大きな穴が開いてるんだ。深くて真っ暗で底が見えない。俺はできるだけ、その穴を見ないように背を向けて、でも穴から離れることもできず、その縁で踊ってる」
 アカネは、出会った頃のエクルーを思い出した。暗い顔をした子供。いつも母親の死を予感しながら、覚悟を決めて看病していた子供。やっと再会した養父も身体を侵されていて、日々病が進行してゆく。私たちの前ではいつも明るくおどけていたけれど、心の中にどれほどの絶望を抱えていたことだろう。
「でも、何かの油断でね、その穴の底をのぞきこんでしまうことがある。そうすると、もう目がそらせない。穴の中に飛び込んでしまいそうになる」
 アカネは両手を握りしめた。それって、死にたくなるってこと?
「あれは……10の時かな?俺がその穴の底をのぞきこんでいるところを、アヤメに見つかってしまった。アヤメは黙って、俺の隣に座って、手を握ってくれてね。こう言うんだ。”大丈夫、私も一緒に飛び込んであげる。一緒に底まで落ちてあげる。絶対、ひとりにしないから”って」
 エクルーはびしょぬれになった髪をかき上げて、天井を仰ぐとはははっと笑った。
「すごいよね、一緒に落ちてあげるって。強烈な告白だよ。でも俺は怖くなってしまって……それ以来、アヤメから逃げ回ってしまうようになった」
 濡れたまま、水の中をいざってアカネの方に近づく。
「ねえ、アカネだったら、何て言ったと思う?」
 アカネは両手を握り締めて、身体を震わせた。
「私だったら? 私だったら、ひっぱたいていたわよ。穴に落ちたいって? 何、バカなこと言ってるのよ。サクヤさんもキジローもアルもスオミもパパもママもリィンもアヤメも私もおいて、飛び込む気? うちのシン、リン、ケンがどれだけあなたを大好きだと思っているの。私だって……」
 そう言いながら、大きな深緑色の瞳から涙をぽろぽろこぼしている。
「……勝手に飛び込ませるもんですか。引きずり出してやるから!」
 エクルーは安心したようにふうっと息をついて微笑んだ。
「うん、アカネならそう言ってくれると思ってた。だからアカネが好きなんだ」


 好き? 私を好き? エクルーが私を好きって言ったの? でも確かにさっきは私にキスして……。またアカネはパニックになった。その様子を見ていたエクルーが、大きなくしゃみをした。
「大変! 風邪ひいちゃうわ! 上がって!」
 アカネが手を伸ばして、エクルーを水から出そうとする。その手を逆にひっぱって、アカネを泉に引っ張り込んだ。盛大な水飛沫を上げて、アカネはエクルーの上に倒れた。
「もう! 何てことするの! 信じられない!」
 エクルーは声を上げて笑った。そして、ずぶ濡れのアカネの髪をおでこからはらうとささやいた。
「髪をのばしてくれない?」
「何よ! 髪も服もびしょ濡れよ!」
 かまわず言葉を継ぐ。
「肩につくまで、髪を伸ばしてよ。俺のために」
 髪が肩より長い女性は、春祭りでプロポーズすることができる。アカネは今まで、どうせエクルーの気持ちが手に入らないなら、と何年もショートカットで操を守って来たのだ。
「アカネはショートが似合うけど、伸ばしてもきれいだと思うよ?」
 アカネは怒っていたのも忘れて、赤くなってしまった。うつむいて小さな声で答える。
「何年もかかるわよ? 肩につくまで」
 エクルーはアカネの濡れた髪を、手ですいた。
「待つよ。何年でも」
 肩を引き寄せられても、今度は抵抗しなかった。

 茜色の残照が差し込む温室で、2人はずぶ濡れのままキスをした。回りには、はしゃいでるるるーりりりーと歌う無数のホタルと、葉陰からこっそり覗くロボット数体がいた。