『セージの小枝』




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 オプシディアンに来て一週間が経ったある朝、朝食にサクヤが現れなかった。
 子供2人はもうほとんど食事を終えようとしていて、キジローが2階から下りてくるとスオミは台所に入ってカウンター越しに卵の注文を聞いた。

「サニー・サイド・アップ。半熟で頼む」
「サクヤは?」
 エクルーが皿に目を落としたまま聞いた。
「寝てろ、と言った。疲れてるみたいなんで」
「まったく反省がないよね、キジローは」
 エクルーが冷静な声で言ったので、スオミははらはらした。
「前にサクヤが冬眠した時、あれだけ大騒ぎしたクセに。夢中になるとガマンが効かないんだな、いい年して。もう少し病人をいたわるべきじゃないのか?」

 キジローはショックで何も言い返せない。
 エクルーは皿に残った最後のイチゴを口に放り込んだ。
「健康な人間だってこたえるんじゃないの? ……一晩に4回なんて」
「エクルー! やめなさい!」
 スオミが叫んだ。
「スオミだって迷惑だろ、一晩中眠れなくて。このオッサンははっきり言ってやらないとわからないんだ」
「エクルー!」
「こんなバカなことで、サクヤを殺さないでくれ」
 そう言ってサクルーは消えてしまった。

 食堂に沈黙が落ちた。
「スオミ……こげ臭いぞ」
「あ、卵! かた焼きになっちゃった」
「それでいいから、くれ」
「ごめんなさい」
 スオミは卵の皿をキジローの前において、サラダを取り分け始めた。
 キジローはまだショックから立ち直れない。
「そんなにツツ抜けるのか?」
 返事のかわりに、スオミが真っ赤になった。
「あの……声が聞こえるとかいうわけじゃないの。何というか……父さんの感じているものが、私達にも感じられるの。普段はね、この距離で座ってても、読もうとしても読めないくらい父さんの思考ってガードがかたいのよ? だけど、ボルテージが上がると……大音量で中継しちゃうみたい。耳がふさげないの。いろいろやってみたんだけど」
「……すまん」
「私はいいの。ステキだと思うわ。父さんがどれだけサクヤのこと待ってたかよく知ってるし」
 スオミはうつむいた。
「でも、エクルーはつらかったみたい。お母さんを取られちゃった気分なのかも」
 キジローもスオミも、エクルーがサクヤを母親などと思っていないのは知っている。でもあえて何も言わなかった。

「父さん、負けちゃダメよ。私達のことは気にしないで。こんな事であきらめちゃダメよ。父さんと同じくらい、サクヤだって父さんに会いたくてそれこそ命がけで旅して来たんだもの。ちゃんと受け止めてあげて」
 キジローは、スオミの顔を見つめて感銘を受けた。
 子供の頃からしっかりした少女だったが、自分の保護者の男女関係など嫌悪感を抱きそうなものなのに。
「エルクーのフォローは私がするから。かわいい弟だもの。父さんはサクヤのことだけ考えてあげて」
 そして、にこっと笑った。

「花嫁さんのベッドに、コーヒーとフルーツを届けるくらいのサービスをしてあげてもいいんじゃない? 私は冷やかさないわよ?」




「こんなとこにいた。父さんが、眺めのいい所を探せと言ったの。当たりだったわね」
 町を見下ろす岩棚にエクルーは座っていた。
 スオミはわざと並んで座らずに、少し離れてくれた場所に腰を下ろした。2人の足下は30pばかりの断崖だ。でも2人とも平気でイワツバメのようにガケにとまっている。イワツバメのように飛べるからだ。

「本気であんなこと言ったんじゃないでしょ?」
 スオミが静かに聞いた。
「わかってるんだ。バカなこと言ったって。わざわざパンパスでキジローを見つけてきて、サクヤと引き合わせたのは俺だ。2人が進展するようにかなり小細工をした。思惑通りうまく行ったのに、今になって悩むなんて……まったくバカみたいだ。ガキ臭いよな」

「しょうがないわよ。忍耐力も、身体と同じで7歳なのよ、きっと」
「それでボンノーだけ1人前なんて、ひどいよな」
「ボンノウじゃないでしょ? 自分をいじめるのはやめなさいよ。サクヤを愛してるんでしょ?ちゃんと認めて、きっぱりあきらめた方が次に進めるわよ。人間、失恋くらいで死にはしないわ」
 エクルーは初めてスオミをふり返った。
「簡単に言ってくれるね。姉さん、恋したことなんかあるの?」
「初恋は……ヤトだったの」
 エクルーは言葉を失った。スオミはヤトの最期さえ見とることができなかったのだ。
「私が無事に逃げのびて、幸せに微笑んでることだけがヤトの希望だったと言ってくれたの。だから私はヤトのために泣いたりしない。未来に進むの。だから今は……キジローが好き」
 エクルーはさらにショックを受けた。自分のことに精一杯で全然気づかなかった。

「自分を守ってくれる足長おじさんに恋するなんて子供っぽいわよね? でも大好き。父さん、と呼んで抱きつきながら、キスしてくれたらいいのに、って思ってた。でも父さんは、私をキリコの分まで幸せにしてやりたいって言うのよ」
 スオミは静かな声で話しながら、微笑んでいた。
「父さんの具合が悪くなった時、私じゃ守れないと思ったの。トゥッキに電話して、サクヤに来てもらえるように頼んだのは私。ワーム・ホールを越えるのが、サクヤの命にかかわるかも、なんて考えもしなかった。父さんのことだけが心配だったの。だから、エクルー。私を恨んでいいわよ。あなたからサクヤを取り上げたのは私」

「俺達が来ることで、自分が危険にさらされる、とも考えもしなかったんだろ?」
「そうね。思いつきもしなかった。ただ、あの2人を会わせてあげたかったの。時間があるうちに」
「俺、とてもそこまで思いきれないよ」
「そういう時、いい方法がある」
 スオミがにこっと笑った。
「センチメンタル・ジャニーよ。ブロークン・ハート同士、二人で旅行しない? もうアカデミーの主要メンバーはたい補されたし、企みも明るみに出たんだから大丈夫でしょ? 私達なら、たいていのピンチはけとばせると思わない?」
「旅行って、どこに行きたいの?」
「イドラ」
 エクルーは仰天した。よりによって。1番危険な場所に。
「私をイドラに連れてって。ヤトが残したものを、あなたが守ったものを見たいのよ。苗床がどれだけ根付いたか、極点移動が運んだ水がどうなったか、落ちて来たペトリの欠片が何をもたらしたのか、イドリアンがどうしているか、この目で見たい。こんな離れた場所で、心配しているのはもうイヤ。でもヤケになってるわけじゃないのよ? どう? あなたは見て来たでしょ? まだ危ないと思う? あなただったら、私を安全にイドラに連れて行ってくれるんじゃない?」
 エクルーはスオミの顔をまじまじと見た。出会った時は、今のエクルーと同じくらいの年の少女だった。目の前で父親を殺され、たったひとりでペトリに漂着し、異星の生物たちに囲まれて育ったのに、驚くほど情緒の安定した子供だった。
 やがて育った星も、育ててくれた養父母も失ったのに、やっぱりスオミは落ち着いて微笑んでいた。ヤトへの思いも、キジローへの思いも、みじんも表に出さないで、運命を受けれて、立ち向かってきたのだ。ちょっとくらいワガママを言ってもいいじゃないか。
「わかった。イドラに行こう。ジンと連絡を取ってみる。スリスがめちゃくちゃスオミに会いたがっていたから、多分、ジンを説得してくれるよ」
「イリスはジンと幸せそうだった?」
 エクルーはにっと笑った。
「自分の目で見れば? こっちのバカップルから逃げて来たのに、イドラでまたあてられるぞ」