Lost Honeymoon


p 1


 小さいとか、かわいいとか、守ってやりたいとか。サクヤのことをそんな風に考えるようになるなんて、想像したこともなかった。ずっと面倒臭いヤツ、えらそうでヤな女、そう思っていたはずなのに。

 タクシーを路肩に寄せて、走ってくる俺を待っていたサクヤは、小さな女の子みたいに心細そうにみえて、俺は思わず自分の胸に抱き寄せてしまった。これまでいつも見上げていたのに、今は俺の胸の中にすっぽり入ってしまう。多分、そのせいだ。そのせいで、俺は何だかおかしくなってしまったんだ。

 サクヤは俺の胸にそっと手をおいて、じっと俺の顔を見上げている。背が3インチ足らずしか違わないから、こうしているとくちびるがすぐ傍にくる。引き寄せられそうだ。
「パスポートと財布は身につけてる?」
 俺は、唐突な質問に面食らったが、「うん、ここに」とジャケットを叩いた。
「じゃ、タクシーに乗って。このままこの街を離れましょう」
 相変わらず、頭ごなしに言われたのに、もう腹は立たなかった。並んでタクシーに乗り込むと、運転手に言った。
「シアトル=タコマ空港へお願いします」
「はいよ。良かったね、追いついてくれて」
「ええ、ありがとう」

 サクヤはいったいどんな物語を運転手に話していたんだろう。そして、ふいに思い出した。
「忘れ物した。やっぱりホテルに戻ってくれ」
「忘れ物ってこれ?」
 かばんから”ナイン・ストーリーズ”を出して、サクヤが俺に差し出す。
「フランス語版。大学通りの古本屋で見つけたの。新訳よりもこっちの方がいいって、お店の人が薦めてくれたの」
 俺は手の中の小さな本をぱらぱらとめくった。扉の見返しページを開くと、ペンと一緒にサクヤに渡した。
「ここに書いて。前の本みたいに」
「だって初版本よ?」
「絶対に売らないからいい。書いて」
「・・・もう、誕生日じゃなくなっちゃったわね」
 サクヤは信号待ちの間に "From S to E. Nice to see you again." と書いた。

 そのページを見ながら、ふいに俺は気が付いて笑い出した。
「こんな本買って、いつ俺に渡すつもりだったんだ?」
 サクヤが赤くなった。赤くなったサクヤなんて初めて見た。
「あのバンドのプロダクションあてに送るつもりだったの・・・どこか、地球の裏側から」
「ふうん。そのチケットはもう予約してるの?」
「いいえ。空港でキャンセル待ちを探すつもりだったの」
 俺はにやにやしながら聞いた。
「いつも面倒臭いくらい用意周到なサクヤが、そんな行き当たりばったりで旅行するなんて珍しいよね」
 サクヤがますます赤くなった。だめだ。やっぱりかわいい。

「ライブ、見に来てたの?」
「ええ。毎日」
「毎日?」
「邪魔しちゃいけないと思って、裏手に入れてもらったの。スタジオも毎日見に行った」
「それくらいなら・・・」
「あなたの歌、ステキだった・・・」
 そう、つぶやくように言うと、俺に寄りかかって眠ってしまった。空港までの60分、身じろぎをしないで寝ていた。

「お兄さん。レィディを大事にしないとバチが当たるよ。俺はこの10日、レィディのお抱え運転手をやってたんだ。すごくいい値を出してくれてね。毎日、何時間でも物騒な裏通りでスタジオの入り口を張っててさ。日に日にやつれていくから、俺まで心配になってさ。良かったよ。安心した。若いうちはいろいろ迷うかもしれないが、家族に心配かけちゃいけないよ?」
 ポーランド系の運転手に説教されながら、いったいどんな設定になっていたんだろう、といぶかしんだ。まあ、十中八九、俺が家出した弟ってとこだろうか。


 3時間後にマイアミ、サンチャゴ経由でブエノス・アイレスに飛ぶ便にキャンセル待ちがあった。
「スペイン語話せる?」
「日常会話くらいなら」
「まあ、俺も何とかなるかな。スペイン語とフランス語っていとこみたいなもんだろ?」

 タクシーの中でクセがついたのか、サクヤは待合ロビーでずっと俺に寄りかかって寝ている。ずずっと俺の胸をすべり落ちて、ひざ枕で本格的に眠ってしまった。ももにそっと手をかけている。息がかかる。ひざの上に髪が広がっている。俺は叫びだしたい気分だが、身動きもできない。
 そっと髪を指ではらって、寝顔を覗き込んでみる。考えてみると、サクヤが俺の前で無防備に寝ているのを見るのは初めてだ。きっとサクヤにとっても、俺の位置づけが変わったんだろう。
 それにしても、もう限界だ。

 サクヤがくしゅん、と小さなくしゃみをした。
「冷えたんだろう。これ、着なよ」
 起こして、肩をジャケットで包む。
「起きたついでに、ちょっと荷物見てて。俺、トイレ」
「また?大丈夫?」
「ライブの前に喰ったものが悪かった」
 そそくさとトイレに逃げる。正気に戻らなくては。
 これから12時間。待ち時間も入れると19時間。サクヤと密着して旅行なのだ。そこで、ある事に気づいてぞっとした。この先ずっと2人きりで旅行じゃないか。ホテルでも?となりのベッドで眠るサクヤの寝息を聞きながら、俺は正気を保てるのか?あの白いうなじに顔を埋めたくなるに決まってる。絶対、あの小ぶりな胸を手で包みたくなる。そして、もう一度あの華奢な身体を腕で包んで、つややかな髪の間に指を入れて引き寄せる。それからあの桜貝のようなくちびるに・・・。

 戻ってきた俺が、よっぽど憔悴した顔をしていたんだろう。サクヤがまた、
「大丈夫?クスリあるわよ?」と聞いた。
「大丈夫。悪いものは大体出したから」
 それでもしばらく俺の顔を気遣わしげに見ていた。
「ねえ。この時間に開いてるカフェかコーヒースタンドあるかしら」
「あったよ。向かいのラウンジに」
「温かいお茶でも飲みましょうよ。寒くなっちゃった。あなたも水分補給しないと、機内で脱水症状起こしちゃうわ」
 サクヤが俺の腕に手をかけて、ラウンジの方に誘う。この人は、これまでもこんなふうにさりげなく、俺の心配をしてたんだろうな。でも、ちっとも気づかなかった。

「ねえ、腹イタのおまじない、してくれないか」
 人気のない深夜の空港ロビーを歩きながら、俺が言い出した。
「いいわよ。どうするの?」
 何も知らないサクヤが安請け合いする。

 俺はスタッフ・エリアに入る通路から見えないコーナーにサクヤを引っ張り込んだ。そして身体中でサクヤを壁に押し付けて、くちづけした。すぐ、ひっぱたかれるか、蹴飛ばされるかするだろうと思ったのに、サクヤは小さく震えながらじっと俺の肩に手を置いて目を閉じている。小さい。柔らかい。強く抱きしめたら折れそうだ。うなじから花のような香りが立ち上って幻惑される。
 顔を離したとき、2人とも息がはずんでいた。サクヤは目をふせて小さくため息をついた。
「本当に、これ、お腹に効くおまじないなの?」
「うん。村の言い伝えなんだ」
「ふうん。じゃあ、仕方ないわね」
 正しくは好きな女の子に、痛いところに手をあててもらう、だけど別に手でなくてもいいだろう?

 お茶を飲みながら、サクヤが不安そうな顔で言った。
「他にもあんな怪しげなおまじないがあるんじゃないでしょうね?」
「え?もちろん、いろいろあるよ?」
 サクヤは本当にさっきのおまじないを信じているんだろうか。それならいいや。当分、利用させてもらおう。


 報告しておくと、サクヤはその後も丸っきり警戒することなく俺を枕にして眠り続けたし、俺が何かと理由をつけて腕をくんだり、抱き寄せたりしても文句を言わなかった。

 ただ、ブエノスアイレスに入って1週間たったある日、俺はサクヤにぎゅっと鼻をつねられた。
「この間、これは頭痛のおまじないって言ってたじゃない?」
「ごめん。ちょっと混乱したんだよ」
「いい加減なこと言うなら、もう協力してあげないわよ?」
「じゃあ、正直に言っていいの?」
「え?」
 俺はサクヤの両肩の向こうに腕を回して、ソファに囲い込んだ。
「どこも痛くなくて、ただサクヤにキスしたいだけだって言ったら、困るんじゃないのか?」
 お互いの目は10センチも離れていない。
「それならあなただって言ってくれなくちゃ」
「何を?」
 サクヤが自信なげに小さな声で言う。
「キスする理由」
「言っていいの?もっと困るんじゃないの?」
「理由によるわ」
「小さくてかわいいからって言っていいのか?」
 どうやらその理由は予想してなかったらしい。
「髪がさらさらしててきれいだからキスしたいって言ってもいい?」
 サクヤはまだ言葉が出てこないようだ。
「好きだからキスしたいって言ったら困るんだろう?」
「・・・困るわ」
 目をふせてつぶやくように言った。
「だから・・・これはただの頭痛のおまじない」